ござんしょう?」
「なぜでも嫌いだ。月を見るとものを思う。人間ものを思えば苦しくもなる。そのため――かも知れぬな」
「お別れになった奥様のことでも思い出して、おさびしくなるのでございましょうよ」
「ふふふ、そうかも知れぬ。ま、早くしめるがいい」
 すっかり戸締りができると、源十郎はまた寝そべって、
「さよ、ここへ来て、ちょっと肩へつかまってくれ」
 按摩を、と言う。
 おさよは襷《たすき》のまま座敷へはいって、源十郎の肩腰を揉《も》み出した。
「もう何刻《なんとき》かな?」
「つい今し方|回向院《えこういん》の八つが鳴るのを聞きました」
「そうか。道理で眠いと思った。あああああ!」
 大欠伸《おおあくび》をしながら、
「貴様、年寄りだけあって眠がらんな。身体が達者とみえる」
「ええええ、そりゃもういたって丈夫なほうで、その上、年をとるにつれて、なかなか夜眼が合わなくなりますのでございますよ。ですから、これから寝《やす》ませていただいてもお天道さまより先に起きてしまいます」
「だいぶ凝《こ》ってるようだ。うん、そこを一つ強く頼む――貴様、何か、子供はないのか」
「ございます、ひとり」
「男か女か」
「女でございます」
「女か――それでも、楽しみは楽しみだな」
「なんの、殿様、これがもし男の子でしたら、伝手《つて》を求めてまた主取《しゅど》りをさせるという先の望みもございましょうが、女ではねえ……それに――」
「主取りと申すと、貴様武家出か」
「はい。お恥ずかしゅうございます」
「ほほう。それは初耳だな。して藩はどこだ?」
「殿様、そればかりはおゆるしを。こうおちぶれてお主《しゅ》のお名を出しますことは――」
「それはそうだ。これはおれが心なかったな。しかし、さしずめ永の浪々のうちに配合《つれあい》をなくして、今の境涯に落ちたという仔細《しさい》だろう?」
「お察しのとおりでございます」
「それで、その娘というのはいかがいたした?」
「宿元へ残して参りましたが、それが殿様、ほんとに困り者なんでございますよ」
「どうしてだ?」
「いえね。まあ、この婆あとしては、幸い資本《もとで》を見てやろうとおっしゃってくださる方もありますから、しかるべき、と申したところで身分相当のところから婿《むこ》を迎えて、細くとも何か堅気な商売でも出さしてやりたいと思っているのでございますが、親の心子知らずとはよくいったもので、なんですか、このごろ悪い虫がつきましてねえ」
「浮気か」
「泣かされますでございますよ」
「なんだ、相手は」
「どこかお旗本の御次男だとか――」
「よいではないか。他人まかせの養子というやつには、末へいって困却《こんきゃく》する例がままある。当人同士が好きなら、それが何よりだ。お前もせいぜい焚きつけて後日左|団扇《うちわ》になおる工面をしたがよい。おれが一つまとめてやろうか、はははは」
「まあ、殿様のおさばけ方――でも、どうもおうちの首尾がおもしろくございませんでねえ」
 つ[#「つ」に傍点]と、源十郎は聞き耳を立てた。
 びょうびょう[#「びょうびょう」に傍点]と吠える犬の声に追われて、夜霧を踏む跫音が忍んで来たかと思うと、
 しッ! しッ!
 と庭に犬を叱る低声《こごえ》とともに、コトコトコトと秘めやかに雨戸が鳴って、
「おい! 源十、鈴源《すずげん》、俺だ……おれだよ。あけてくれ」

 ――帰って来たな、とわかると、源十郎の眉が開いて、あちらへ行っておれと顎でおさよを立ち去らせるが早いか、しめたばかりの戸をまたあける。
 夜妖《やよう》の一つのように、丹下左膳が音もなくすべりこんだ。
「おそかったな。今ごろまでどこへ行っていた?」
 それには答えず、左膳は用心深く室内をうかがって、
「連中は?」
「今帰ったところだ」
 左膳は先に立って行燈《あんどん》の光のなかへはいって行ったが、続いた源十郎はちょっとどきり[#「どきり」に傍点]とした。
 左膳の風体《ふうてい》である。
 巷《ちまた》の埃りに汚れているのは例のことながら、今夜はまたどうしたというのだ! 乱髪が額をおおい、片袖取れた黒七子《くろななこ》の裾から襟下へかけて、スウッと一線、返り血らしい跡がはね上がっている。隻眼《せきがん》隻腕《せきわん》、見上げるように高くて痩せさらばえた丹下左膳。猫背のまま源十郎を見すえて、顔の刀痕が、引っつるように笑う。
「すわれ!」
 源十郎は、夜寒にぞっとして丹前を引きよせながら、
「殺《や》って来たな誰かを」
「いや、少々暴れた。あははははは」
「いいかげん殺生《せっしょう》はよしたがよいぞ」
 こう忠言めかしていった源十郎は、そのとき、胡坐《あぐら》になりながら左膳が帯からとった太刀へ、ふと好奇な眼を向けて、
「なんだそれは? 陣太刀ではないか」
 すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
 と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
 太い濁声《だみごえ》を一つずつしゃくりあげる。
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい功徳《くどく》になるわ。もっともあの女、貴様のような男に、どこがよくて惚れたのか知らんが、一通り男を食い散らすと、かえって貴様みたいな人《にん》三|化《ばけ》七がありがたくなるものと見えるな。不敵な女じゃが、貴様のこととなるとからきし意気地がなくなって、まるで小娘、いやもう、見ていて不憫《ふびん》だよ。貴様もすこしは冥加《みょうが》に思うがいい」
 源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「四更《しこう》、傾月《けいげつ》に影を踏んで帰る。風流なようだが、露にぬれた。もうそんな話あ聞きたくもねえや。だがな鈴源、俺が貴様ん所に厄介になってから、これで何月になるかなあ?」
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半|歳《とし》にはなろう」
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
 前かがみに突然陣太刀作りの乾雲丸《けんうんまる》を突き出した左膳。
「さ、此刀《これ》だ! 話の緒《いとぐち》というのは」
 と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い暁闇《ぎょうあん》が部屋の四隅へ退く。が、障子越しの廊下にたたずんでいる人影には、二人とも気がつかなかった。
 左膳の言葉。
 この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》殿の家臣が、主君の秘命をおびて府内へ潜入している仮りの相《すがた》であった。
 で、その用向きとは?
 れっき[#「れっき」に傍点]とした藩士が、なぜ身を痩狗《そうく》の形にやつ[#「やつ」に傍点]して、お江戸八百八丁の砂ほこりに、雨に、陽に、さらさなければならなかったか。
 そこには、何かしら相当の原因《いわく》があるはず。
 珍しく正座した左膳の態度につりこまれて、源十郎の顔からも薄笑いが消えた。
 二人を包む深沈《しんちん》たる夜気に、はや東雲《しののめ》の色が動いている。
 ただ廊下に立ち聞くおさよは、相馬中村と聞いて、危うく口を逃げようとしたおどろきの声を、ぐっ[#「ぐっ」に傍点]と両掌《りょうて》で押し戻した。
 六万石相馬様は外様衆《とざましゅう》で内福の家柄である。当主の大膳亮は大の愛刀家――というより溺刀《できとう》の組で、金に飽かして海内《かいだい》の名刀|稀剣《きけん》が数多くあつまっているなかに、玉に瑕《きず》とでも言いたいのは、ただ一つ、関七流の祖|孫六《まごろく》の見るべき作が欠けていることだった。
 そこで、
 どうせ孫六をさがすなら、この巨匠が、臨終の際まで精根を涸《か》らし神気をこめて鍛《う》ったと言い伝えられている夜泣きの大小、乾雲丸と坤竜丸《こんりゅうまる》を……というので、全国に手分けをして物色すると、いまその一腰《ひとふり》は、江戸根津権現のうら曙の里の剣道指南小野塚鉄斎方に秘蔵されていると知られたから、江戸の留守居役をとおして金銀に糸目をつけずに交渉《あた》らせてみたが、もとより伝家の重宝、手を変え品をかえても、鉄斎は首を縦にふらない。
 とてもだめ。
 とわかって、正面の話合いはそれで打ち切りになったが、大膳亮の胸に燃える慾炎は、おさまるどころか新たに油を得たも同様で、妄念は七十六里を飛んで雲となり、一図に曙の里の空に揺曳《ようえい》した。
 物をあつめてよろこぶ人が、一つことに気をつめた末、往々にして捉われる迷執《めいしゅう》である。業火《ごうか》である。
 領主大膳亮が、あきらめられぬとあきらめたある夜、おりからの闇黒《やみ》にまぎれて、一つの黒い影が、中村城の不浄門《ふじょうもん》から忍び出て城下を出はずれた。そのあくる日、お徒士《かち》組丹下左膳の名が、ゆえしれず出奔した廉《かど》をもって削られたのである。
 血を流しても孫六を手にすべく、死を賭した決意を見せて、不浄門から放された剣狂丹下左膳、そのころはもう馬子唄のどかに江戸表へ下向の途についていた。
 おもて向きは浪々でも、その実、太守の息がかかっている。
 この乾坤二刀を土産に帰れば、故郷には、至上の栄誉と信任、莫大な黄金と大禄が待っているのだ。
 出府と同時に、本所法恩寺前の鈴川源十郎方に身をよせた左膳は、日夜ひそかに鉄斎道場を見ていると、年に一度の秋の大仕合に、乾雲坤竜が一時の佩刀《はいとう》として賞に出るとの噂《うわさ》。
 それ以来、待ちに待っていた十月初の亥《い》の日。
 横紙破りの道場荒しも、刀の番《つがい》をさこうという目的があってのことだった――。
「老主を始め、十人余りぶった斬って持ち出したのだ。抜いて見ろ」
 ……なが話を結んだ左膳、片眉上げて大笑する。重荷の半ばをおろした心もちが、怪物左膳をいっそう不覊《ふき》にみせていた。
 すわりなおした源十郎、懐紙をくわえて鞘を払い、しばし乾雲丸の皎身《こうしん》に瞳を細めていたが、やがて、
「見事。――鞘は平糸まき。赤銅《しゃくどう》の柄《つか》に叢雲《むらくも》の彫りがある。が、これは刀、一本ではしかたがあるまい」
「ところが、しかたがあるのだ。源十、貴様はまだ知らんようだが、雲は竜を招き、竜は雲を呼ぶと言う。な、そこだ! つまり、この刀と脇差は、刀同士が探しあって、必ず一対に落ち合わねえことには納まらない」
「と言うと?」
「わかりが遅いな。差し手はいかに離れていようとも、刀と刀が求め合って、早晩《そうばん》一つにならずにはおかねえというのだ。乾雲と坤竜とのあいだには、眼に見えぬ糸が引きあっている」
「うむ。言わば因縁の綾《あや》だな」
「そうだ。そこでだ、俺は明日からこの刀をさして江戸中をぶらつくつもりだが、先方でも誰か腕の立つ奴が坤竜を帯《たい》して出歩くに相違ねえから、そこでそれ、雲竜相ひいて、おれとそい[#「そい」に傍点]つと必ず出会する。その時だ、今から貴公の助力を求めるのは」
「助太刀か、おもしろかろう。だが、その坤竜を佩《は》いて歩く相手というのは?」
「それはわからん。がしかし、色の生っ白い若えので、ひとり手性のすごいやつがおったよ。俺あそいつの剣で塀から押し出されたようなものだ」
「ふうむ。やるかな一つ」
「坤竜丸はこれと同じこしらえ、平巻きの鞘に赤銅の柄、彫りは上り竜だから、だれの腰にあっても一眼で知れる」
 近くの百姓家で鶏《とり》が鳴くと、二人は期せずして黙りこんで、三つの眼が
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