間に狂い立った弥生、血を吐くような声で絶叫した。
「栄三郎様ッ、斬って! 斬って! あなたのお手にかかれば本望ですッ……さ、早く」
 栄三郎がひるむ隙に、松の垂れ枝へ手をかけた左膳、抜き身の乾雲丸をさげたまま、かまきりのような身体が塀を足場にしたかと思うと、トンと地に音して外に降り立った。
 火のよう[#「よう」に傍点]――じん[#「じん」に傍点]の声と拍子木《ひょうしぎ》。
 それが町角へ消えてから小半刻《こはんとき》もたったか。麹町《こうじまち》三番町、百五十石|小普請《こぶしん》入りの旗本|土屋多門《つちやたもん》方の表門を、ドンドンと乱打する者がある。
「ちッ。なんだい今ごろ、町医じゃあるめぇし」寝ようとしていた庭番の老爺《ろうや》が、つぶやきながら出て行って潜《くぐ》りをあけると、一拍子に、息せききって、森徹馬がとびこんで来た。
「おう! あなた様は根津の道場の――」
 御主人へ火急の用! と言ったまま、徹馬は敷き台へ崩れてしまった。
 土屋多門は鉄斎の従弟、小野塚家にとってたった一人の身寄りなので、徹馬は変事を知らせに曙の里からここまで駈けつづけて来たのだ。
 何事が起こったのか……と、寝巻姿に提《さ》げ刀で立ち現われた多門へ、徹馬は今宵の騒ぎを逐一《ちくいち》伝える。
 ――丹下左膳という無法者が舞いこみ、大事の仕合に一の勝ちをとって乾雲丸を佩受《はいじゅ》したこと、そして、さしたまま逃亡しようとして発見され鉄斎先生はじめ十数人を斬って脱出した……しかも、刀が乾雲丸の故か、斬られた者は、重軽傷を問わずすべて即死! と聞いて、多門はせきこんだ。
「老先生もかッ」
「ざ、残念――おいたわしい限りにございます」
「チエイッ! 御老人は年歳《とし》は年齢だが、お手前をはじめ諏訪など、だいぶ手ききが揃っておると聞いたに、なななんたる不覚――」
 徹馬は、外へ探しに出ていて、裏塀を乗り越えるところを見つけて斬りつけたが、なにしろこの暗夜、それに乾雲丸の切先|鋭《するど》く、とうとう門前町《もんぜんちょう》の方角へ丹下の影を見失ってしまった。こう弁解らしくつけたしたかれの言葉は、もはや多門の耳へははいらなかった。
 お駕籠を、と老爺が言うのを、
「なに、九段で辻待ちをつかまえる」
 と、したくもそこそこに、多門は徹馬とつれ立って屋敷を走り出た……。
 行く先は、いうまでもなく根津曙の里。
 その曙の里の道場。
 奥の書院に、諏訪栄三郎と弥生が、あおざめた顔をみつめあって、息づまる無言のまま対座している。
 鉄斎をはじめ横死者《おうししゃ》の遺骸は、道場に安置されて、さっきから思いがけない通夜《つや》が始まっている。二人はその席を抜けて、そっとこの室へ人眼を避けたのだ。悲しみの極を過ぎたのだろう、もう泣く涙もないように、弥生はただ異様にきらめく眼で、憮然《ぶぜん》として腕を組んだ栄三郎の前に、番《つがい》を破られて一つ残った坤竜丸が孤愁《こしゅう》を託《かこ》つもののごとく置かれてあるのを見すえている。
 遠く近く、ジュウン……ジュンという音のするのは焚き火に水を打って消しているのである。いきなり障子の桟《さん》でこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]が鳴き出した。
「まったく、なんと申してよいやら、お悔《くや》みの言葉も、ありませぬ」
 一句一句切って、栄三郎は何度もいって言葉をくり返した。
「御秘蔵の乾雲丸が先生のお命を絶とうとは、何人《なんびと》も思い設けませんでした。がしかし、因縁《いんねん》――とでも申しましょうか、離れれば血を見るという乾雲は、離れると第一に先生のお血を……」
「栄三郎様!」
「いや、こうなりましたうえは、いたずらに嘆き悲しむより、まず乾雲を取り返して後難を防ぐのが上分別かと――」
「栄三郎さまッ!」
「それには、私に一策ありと申すのが、刀が刀を呼ぶ。乾雲と坤竜は互いにひきあうとのことですから、もし、私に、この坤竜丸を帯して丹下左膳めをさがすことをお許しくださるなら、刀同士が糸を引いて、必ずや左膳に出会いたし……」
「栄三郎さまッ!」
「はい」
「あなたというお人は、なんとまあお気の強い――刀も刀ですけれど弥生の申すことをすこしもお聞きくださらずに」
「あなたのおっしゃること――とはまたなんでございます?」
「まあ! しらじらしい! あなたさえ今日勝つべき仕合にお勝ちくださったら、こ、こんなことにはならなかったろうと……それを思うと――栄三郎様ッ、お恨み、おうらみでございます」
「勝負は時の運。私は他意なく立ち合いました」
「うそ! 大うそ!」
「ちとお謹《つつし》み――」
「いいえ。あなたのようなひどい方がまたとございましょうか。わたしの心は百も御承知のくせに、女の身としてこの上もない恥を、弥生は、きょう初めて……」
「弥生様。道場には先生の御遺骸もありますぞ」
「ええ……この部屋で、父はどんなに嬉しそうににっこりしてあの貼り紙を書きましたことか――」
「――それも、余儀ありませぬ」
「栄三郎さまッ! あ、あんまりですッ!」
 わッ! と弥生が泣き伏した時、廊下を踏み鳴らしてくる多門の跫音《あしおと》がした。
 おののく白い項《うなじ》をひややかに見やって栄三郎は坤竜丸を取りあげた。
「では、この刀は私がお預かりいたします。竜は雲を招き、雲は竜を待つ、江戸広しといえども、近いうちに坤竜丸と丹下の首をお眼にかけましょう――」
 こうして、戦国の昔を思わせる陣太刀作《じんだちづく》りの脇差が、普通の黒鞘《くろざや》武蔵太郎安国と奇妙な一対をなして、この夜から諏訪栄三郎の腰間《こし》に納まることとなった。

   化物屋敷《ばけものやしき》

 うすあばたの顔に切れの長い眼をとろんとさせて、倒した脇息《きょうそく》を枕に、鈴川源十郎はほろ酔いに寝ころんでいる。
 年齢は三十七、八。五百石の殿様だが、道楽旗本だから髪も大髻《おおたぶさ》ではなく、小髷《こまげ》で、鬢《びん》がうすいので、ちょっと見ると、八丁堀に地面をもらって裕福に暮らしている、町奉行支配の与力《よりき》に似ているところから、旗本仲間でも源十郎を与力と綽名《あだな》していた。
 父は鈴川宇右衛門といって大御番組頭《おおおばんくみがしら》だったが、源十郎の代になって小普請《こぶしん》に落ちている。去水流居合《きょすいりゅういあい》の達人。書も相応に読んだはずなのが、泰平無事の世に身を持てあましてか、このごろではすっかり市井《しせい》の蕩児《とうじ》になりきっている――伸ばした足先が拍子をとって動いているのは、口三味線《くちじゃみせん》で小唄でも歌っているらしく、源十郎は陶然として心地よさそうである。
 秋の夜なが。
 本所《ほんじょ》法恩寺《ほうおんじ》まえの鈴川の屋敷に常連が集まってお勘定と称してひとしきりいたずら[#「いたずら」に傍点]が盛ったあとは、こうして先刻からにわか酒宴がはじまって、一人きりの召使おさよ婆さんが、一升徳利をそのまま燗《かん》をして持ち出すやら、台所をさらえて食えそうな物ならなんでも運びこむやら、てんてこまいをしている騒ぎ。
「なんだ、鈴川、新しい婆《ばば》あが来ておるではないか」
 土生《はぶ》仙之助が珍しそうにおさよを見送って言う。
「うむ。前のは使いが荒いとこぼして暇を取っていった。あれは田原町《たわらちょう》三丁目の家主《やぬし》喜左衛門《きざえもん》と鍛冶屋富五郎《かじやとみごろう》鍛冶富《かじとみ》というのを請人《うけにん》にして雇い入れたのだ。よく働く。眼をかけてやってくれ。どうも下女は婆あに限るようだて。当節の若いのはいかん」
「へっへっへっへっ」隅《すみ》で頓狂《とんきょう》に笑い出したのは、駒形《こまがた》の遊び人与吉だ。
「ヘヘヘ、使いが荒いなんて、殿様、なんでげしょう、ちょいとお手をお出しなすったんで……こう申しちゃなんですけれど、こちらの旦那と来た日にゃ悪食《あくじき》だからね」源十郎は苦笑して、生き残った蛾が行燈に慕いよるのを眺めている。
 本所の化物屋敷と呼ばれるこの家[#「この家」に傍点]に今宵とぐろをまいている連中は、元小《もとこ》十人、身性が悪いので誘い小普請入りをいいつかっている土生仙之助を筆頭に、いずれも化物に近い変り種ばかりで、仙之助は、着流しのうしろへ脇差だけを申しわけにちょいと横ちょに突き差して肩さきに弥蔵《やぞう》を立てていようという人物。それに本所きっての悪御家人旗本が十人ばかりと、つづみの与吉などという大一座に、年増《としま》ざかりの仇っぽい女がひとり、おんなだてらに胡坐《あぐら》をかいて、貧乏徳利を手もとにもうだいぶ眼がすわっている。
「お藤《ふじ》、更けて待つ身は――と来るか、察するぞ」
 誰かがどなるように声をかけるのを、櫛《くし》まきお藤はあでやかに笑い返して、またしても白い手が酒へのびる。
「なんとか言ってるよ……主《ぬし》に何とぞつげの櫛、どこを放っつきまわってるんだろうねえ、あの人は。ほんとにじれったいったらありゃしない」
「手放し恐れ入るな。しかしお藤、貴様もしっかりしろよ。あいつ近ごろしけ[#「しけ」に傍点]こむ穴ができたらしいから――」
「あれさ、どこに?」
「いけねえ、いけねえ」与吉があわてて両手を振った。
「そう水を向けちゃあいけませんやあねえ。姐御《あねご》、姐御は苦労人だ。辛気《しんき》臭くちゃ酒がまずいや、ねえ?」
 どッ! と浪のような笑いに座がくずれて、それを機に、一人ふたり帰る者も出てくる。
 櫛まきお藤は、美しい顔を酒にほてらせて、男のように胡坐の膝へ両手をつっ張ったまま、頤《あご》を引いて、帰って行く人を見上げている。紅い布が半開の牡丹のように畳にこぼれて、油を吸った黄楊《つげ》の櫛が、貝細工のような耳のうしろに悩ましく光っている風情《ふぜい》、散りそめた姥桜にかっ[#「かっ」に傍点]と夕映えが照りつけたようで、熟《う》れ切った女のうまみが、はだけた胸元にのぞく膚の色からも、黒襟かけた糸織のなで肩からも、甘いにおいとなって源十郎の鼻をくすぐる。
 この女はこれでおたずね者なのだ――こう思うと源十郎は、自分が絵草紙の世界にでも生きているような気がした。
「姐御、皆さんお帰りです。お供しやしょう」与吉にうながされて、ひとり残っていたお藤は、片手をうしろに膝を立てた。
「そうだねえ。実《じつ》のない人はいつまで待っていたってしようがない。じゃ、お神輿《みこし》をあげるとしようか。お殿様おやかましゅうございました。おやすみなさい」
「うむ帰るか」
 と源十郎は横になったまんまだ。
 食べ荒らした皿小鉢や、倒れた徳利に蒼白い光がさして、畳の目が読める。
 軒低く、水のような月のおもてに雁《かり》がななめに列《つら》なっていた。
 与吉がお藤を送って、浅草の家へ帰って行くと、しばらくして、寝ころんでいた源十郎が、むくり[#「むくり」に傍点]と起き上がっておさよを呼んだ。
「はいはい」
 と出てきたおさよ婆さん、いつのまにか客が帰ってがらん[#「がらん」に傍点]としているのにびっくりして、
「おやまあ、皆さまお帰りでござんしたか。ちっとも存じませんで――ここはすぐに片づけますけれど、あのお居間のほうへお床をとっておきましたから」
「まあ、いい、それより、戸締りをしてくれ」
 縁の戸袋から雨戸をくり出しかけたおさよの手が、思わず途中で休んでしまう。
 藍絵《あいえ》のような月光。
 近いところは物の影がくっきり[#「くっきり」に傍点]と地を這って、中《なか》の郷《ごう》のあたり、甍《いらか》が鱗《うろこ》形に重なった向うに、書割《かきわり》のような妙見《みょうけん》の森が淡い夜霧にぼけて見える。どこかで月夜|鴉《がらす》のうかれる声。
 おさよは源十郎をふりかえった。
「殿様、いい月でございますねえ」
 すると源十郎。
「おれは月は大嫌いだ」
 と、はねつけるよう。
「まあ、月がお嫌い――さようでございますか。ですけれど、なぜ……で
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