胸へ突きあげてくる。
鉄斎は起って来て、栄三郎をにらみつけた。
「これ、卑怯者、竹刀を取れ!」
栄三郎の口唇《くちびる》は蒼白い。
「お言葉ながらいったん勝負のつきましたものを――」
「黙れ、黙れ! 思うところあってか故意に勝ちをゆずったと見たぞ。作為《さくい》は許さん! もう一度森へかかれッ!」
「しかし当人が参ったと申しております以上――」
「しかし先生」徹馬も一生懸命。
「エイッ、言うな! 今の勝負は鉄斎において異存があるのだ。ならぬ、今いちど立ち会え!」
この騒ぎで誰も気がつかなかったが、ふと見ると、いつのまに来たものか、道場の入口に人影がある。玄関の侍が、いくら呼んでも取次ぎが出ないのでどんどんはいりこんで来たのだ。
相変わらず片懐中手《かたふところで》、板をさげている。
鉄斎が見とがめて、近寄っていった。
「何者だ? どこから来おった!」
「あっちから」
ぬけぬけとした返事。上身をグッとのめらせて、声は優しい。一同があっけにとられていると、今日の仕合に優勝した仁《じん》と手合せが願いたいと言う。
名は! ときくと、丹下左膳《たんげさぜん》と答える。流儀は? とたたみかけると、丹下流……そしてにやりとした。
「なるほど。御姓名が丹下殿で丹下流――いや、これはおもしろい。しかし、せっかくだが今日は内仕合で、他流の方はいっさいお断りするのが当道場の掟《おきて》となっておる。またの日にお越しなさい」
ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、咽喉《のど》で笑った。
「またの日はよかったな。道場破りにまたの日もいつの日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」
片手で突き出した板に神変夢想流指南《しんぺんむそうりゅうしなん》小野塚鉄斎道場と筆太の一行!
や! 道場の看板! さては、門をはいりがけにはずして来たものと見える。おのれッ! と総立ちになろうとした時、
「こうしてくれるのだッ!」
と丹下左膳、字看板を離して反《そ》りかえりざま、
カアッ、ペッ!
青痰《あおたん》を吐《ひ》っかけたは。
はやる弟子を制して大手をひろげながら、鉄斎が森徹馬をかえりみて思いきり懲《こ》らしてやれ! と眼で言うその間に左膳は、そこらの木剣を振り試みて、一本えらみ取ったかと思うと、はやスウッ! と伸びて棒立ち。裾に、女物の下着がちらちらする。やはり右手を懐中にしたままだ。カッとした徹馬、
「右手を出せ」
すると、
「右手はござらぬ」
「何? 右手はない? 隻腕か。ふふふ、しかし、隻腕だとて柔らかくは扱わぬぞ」
左膳、口をへの字に曲げて無言。独眼隻腕の道場荒し丹下左膳。左手の位取りが尋常でない。
が、相手は隻腕、何ほどのことやある?……と、タ、タッ、飄《ひょう》ッ! 踏みきった森徹馬、敵のふところ深くつけ入った横|薙《な》ぎが、もろにきまった――。
と見えたのはほんの瞬間、ガッ! というにぶい音とともに、
「う。う。う。痛《つ》う」
と勇猛徹馬、小手を巻き込んでつっぷしてしまった。
同時に左膳は、くるり[#「くるり」に傍点]と壁へ向きなおって、もう大声に告げ紙を読み上げている。
「栄、栄三郎、かかれッ!」
血走った鉄斎の眼を受けて、栄三郎はひややかに答えた。
「勝抜きの森氏を破ったうえは、すなわち丹下殿が一の勝者かと存じまする」
宵闇はひときわ濃く、曙の里に夜が来た。
日が暮れるが早いか、内弟子が先に立って、庭に酒宴のしたくをいそぐ。まず芝生に筵《むしろ》を敷き、あちこちに、枯れ枝薪などを積み集めて焚き火の用意をし、菰被《こもかぶ》りをならべて、鏡を抜き杓柄《ひしゃく》を添える。吉例により乾雲丸と坤竜丸を帯びた一、二番の勝者へ鯣《するめ》搗栗《かちぐり》を祝い、それから荒っぽい手料理で徹宵《てっしょう》の宴を張る。
林間に酒を暖めて紅葉《こうよう》を焚く――夜は夜ながらに焚き火が風情をそえて、毎年この夜は放歌乱舞、剣をとっては脆《もろ》くとも、酒杯にかけては、だいぶ豪の者が揃っていて、夜もすがらの無礼講《ぶれいこう》だ。
が、その前に、乾坤の二刀を佩《は》いたその年の覇者《はしゃ》を先頭に、弥生が提灯《ちょうちん》をさげて足もとを照らし、鉄斎老人がそれに続いて、門弟一同行列を作りつつ、奥庭にまつってある稲荷《いなり》のほこらへ参詣して、これを納会《おさめ》の式とする掟になっていた。
植えこみを抜けると、清水観音の泉を引いたせせらぎに、一枚石の橋。渡れば築山《つきやま》、稲荷はそのかげに当たる。
月の出にはまがある。やみに木犀《もくせい》が匂っていた。
――丹下左膳に、ともかくおもて向ききょうの勝抜きとなっている森徹馬が打たれてみれば、いくら実力ははるか徹馬の上にあるとわかっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な笑《えみ》をうかべ、貼り紙を楯《たて》に開きなおって、乾雲丸《けんうんまる》と娘御《むすめご》弥生どの、いざ申し受けたいと鉄斎に迫った。いや、あれは内輪《うちわ》の賞で、他流者には通用せぬと説いても、左膳はいっこうききいれない。老いたりといえども小野塚鉄斎、自ら立ち向かえば追っ払うこともできたろうが、今日は娘の身にも関係のあること、ここはあやして帰すが第一、それには乾雲丸さえ許せば、よもや娘までもと言うまい――こう考えたから、そこは年輩、ぐっとこらえて、丹下を一の勝ちとみとめた。
で、書院から捧持《ほうじ》して来た関の孫六の夜泣きの名刀、乾雲丸は丹下左膳へ、坤竜丸《こんりゅうまる》は森徹馬へと、それぞれ一時鉄斎の手から預けられた。
参詣の行列。
泣きぬれた顔を化粧《けわ》いなおした弥生が、提灯を低めて先に立つと、その赤い光で、左膳はじっと弥生から眼を離さなかったが、弥生は、あとから来る栄三郎に心いっぱい占められて気がつかなかった。
やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!
自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如|驚愕《おどろき》の叫びをあげた。
「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」
この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。
「なにイ! タ、丹下がいない?」
「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」
たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。
「彼刀《あれ》をさしたままか?」
その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、
「うん……」
続けざまにうなずくだけ――。
乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。
降って湧いたこの椿事《ちんじ》!
離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤《きょうらんどとう》、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刀が、今や所を異にしたのだ!
……凶の札は投げられた。
死肉の山が現出するであろう! 生き血の河も流れるだろう。
剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
そして! その屍山《しざん》血河《けっか》をへだてて、宿業《しゅくごう》につながる二つの刀が、慕いあってすすり泣く……!
非常を報ずる鉄斎道場の警板があけぼのの里の寂寞《しじま》を破って、トウ! トトトトウッ! と鳴りひびいた。
変異を聞いて縁に立ちいでた鉄斎、サッと顔色をかえて下知《げじ》をくだす。
もう門を出たろう!
いや、まだ塀内にひそんでいるに相違ない。
とあって、森徹馬を頭に、二隊はただちに屋敷を出て、根津の田圃に提灯の火が蛍のように飛んだ。
同時に、バタン! バタン! と表裏の両門を打つ一方、庭の捜査は鉄斎自身が采配をふるって、木の根、草の根を分ける抜刀に、焚火の反映が閃々《せんせん》として明滅する。
ひとりそのむれを離れた諏訪《すわ》栄三郎、腰の武蔵太郎安国《むさしたろうやすくに》に大反りを打たせて、星屑をうかべた池のほとりにたった。
夜露が足をぬらす。
栄三郎は裾を引き上げて草を踏んだ。と、なんだろう――歩《あし》にまつわりつくものがある。
拾ってみると、緋縮緬の扱帯《しごき》だ。
はてな! 弥生様のらしいがどうしてこんなところに! と首を傾けた……。
とたんに?
闇黒を縫って白刃が右往左往する庭の片隅から、あわただしい声が波紋のようにひろがって来た。
「やッ! いた、いたッ! ここに!」
「出会えッ!」
この二声が裏木戸のあたりからしたかと思うと、あとはすぐまた静寂に返ってゾクッ! とする剣気がひしひしと感じられる。
声が切れたのは、もう斬りむすんでいるらしい。
散らばっている弟子達が、いっせいに裏へ駈けて行くのが、夜空の下に浮いて見える。
ぶつりと武蔵太郎の鯉口を押しひろげた栄三郎、思わず吸いよせられるように足を早めると、チャリ……ン!
「うわあッ!」
一人斬られた。
――星明りで見る。
片袖ちぎれた丹下左膳が大松の幹を背にしてよろめき立って、左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。
別れれば必ず血をみるという妖刀が、すでに血を味わったのだ。
松の根方、左膳の裾にからんで、黒い影がうずくまっているのは、左膳の片袖を頭からすっぽりとかぶせられた弥生の姿であった。
神変夢想の働きはこの機! とばかり、ずらりと遠輪に囲んだ剣陣が、網をしめるよう……じ、じ、じッと爪先|刻《きざ》みに迫ってゆく。
刀痕《とうこん》鮮かな左膳の顔が笑いにゆがみ、隻眼が光る。
「この刀で、すぱりとな、てめえ達の土性《どしょう》ッ骨を割り下げる時がたまらねえんだ。肉が刃を咬んでヨ、ヒクヒクと手に伝わらあナ――うふっ! 来いッ、どっちからでもッ!」
無言。光鋩《こうぼう》一つ動かない。
鉄斎は? 見ると。
われを忘れたように両手を背後に組んで、円陣の外から、この尾羽《おは》打枯《うちか》らした浪人の太刀さばきに見惚れている。敵味方を超越して、ほほうこれは珍しい遣《つか》い手だわいとでもいいたげなようす!
焦《いら》立ったか門弟のひとり、松をへだてて左膳のまうしろへまわり、草に刀を伏せて……ヒタヒタと慕い寄ったと見るまに、
「えいッ!」
立ち上がりざま、下から突きあげたが、
「こいつウ!」
と呻いた左膳の気合いが寸刻早く乾雲|空《くう》を切ってバサッと血しぶきが立ったかと思うと、突いてきた一刀が彗星《すいせい》のように闇黒に飛んで、身体ははや地にのけぞっている。
弥生の悲鳴が、尾を引いて陰森《いんしん》たる樹立ちに反響《こだま》した。
これを機会に、弧を画いている刃襖《はぶすま》からばらばらと四、五人の人影が躍り出て、咬閃《こうせん》入り乱れて左膳を包んだ。
が、人血を求めてひとりでに走るのが乾雲丸だ。しかも! それが剣鬼左膳の手にある!
来たなッ! と見るや、膝をついて隻手の左剣、逆に、左から右へといくつかの脛《すね》をかっ裂いて、倒れるところを蹴散らし、踏み越え、左膳の乾雲丸、一気に鉄斎を望んで馳駆《ちく》してくる。
ダッ……とさがった鉄斎、払いは払ったが、相手は丹下左膳ではなく魔刀乾雲である。引っぱずしておいて立てなおすまもなく、二の太刀が肘《ひじ》をかすめて、つぎに、乾雲丸はしたたか鉄斎の肩へ食い入っていた。
「お! 栄ッ! 栄三――」
そうだ栄三郎は何をしている? 言うまでもない。武蔵太郎安国をかざして飛鳥ッ! と撃ちこんだ栄三郎の初剣は、虚を食ってツウ……イと流れた。
「おのれッ!」
と追いすがると、左膳は、もうもとの松の根へとって返し、肉迫する栄三郎の前に弥生を引きまわして、乾雲丸の切先であしらいながら、
「斬れよ、この娘を先に!」
白刃と白刃との中
前へ
次へ
全76ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング