た四、五歳の小児を死にもの狂いに呼んでいるのだ。
 与吉は刀身を陽にきらめかせて、もう鼻のさきへ迫ってきている。
「善ちゃん、危ないッ! いいからお帰り! そっちにッ!」
 と女が叫んだ刹那、忠相はヒラリと大作の守護を脱《だっ》して、あれよという間に、通りみちにまごつく善ちゃんを抱きかかえて向う側へ飛びこんだ。
 同時に!
 与吉と、与吉の道中差しは、鉄砲玉のように空《くう》になって疾駆《しっく》し去った。
 とおりがかりの浪人や鳶《とび》の者がぶつかりあいながら与吉を追っかけて行く。それッ! という忠相の眼顔にこたえて、大作もただちに追っ手に加わった。
「この雑踏に抜きゃあがるとは、無茶《むちゃ》な野郎もあったもんですね」
「掏摸《すり》だそうですよ。なんにしても人さわがせなやつで」
 あとには、市の人出が一面にざわめいて、そこにもここにも立ち話がはずんでいる。
 忠相も口をだした。
「掏摸か。それにしても道中姿は珍しいな」
「へえ。あれがあの輩《てあい》の手なんで……一つまちがえばその足で遠国へずらかろうという――」
「なるほどな」
 人品|卑《いや》しからぬお侍だが、どこの誰とも知らないから皆気やすに言葉をかわしている。
「なんでもお若いお武家とかの袂へ悪戯《わるさ》をするところを感づかれて、すんでのことでつかまろうとしたのを、まあ奴《やつ》にとっちゃあこの人混みを幸《さいわい》に暴れだしたんだそうで――とにかく、えらい逃げ足の早え野郎でごぜえます」
 忠相は、首を振って感心してみせた。
「袂にわるさをしたと申して、何か奪ったのであろうがな」
「そいつあ知りませんが、なんにしてもあんなけだものは寄ってたかってぶちのめしてさ、沢庵《たくあん》石でも重りにして大川へ沈めをかけるのが一番でさあ。南町に大岡様てえ名奉行が目を光らせていらっしゃるのに、そのお膝下《ひざもと》でこの悪足掻《わるあがき》だ。いけッ太え畜生じゃありませんか、ねえ」
 越前守忠相、くすぐったそうにうなずいて、ほほえみながら立ち去ろうとすると、善ちゃんの手を引いた若い母親があらためて礼を言っている。
「いや……」
 と笑った忠相の眼は、折りからまたひとり、血相を変えて人を分けてくる若い浪人者の上にとまった。
 諏訪《すわ》栄三郎だ――手に紙片を握っている。
 本所化物屋敷の斬りこみは、火事装束の一隊という思わぬ横槍がはいって、四、五の敵をむなしく殺《あや》めたほか、めざす左膳には薄傷《うすで》をおわせたにすぎなかったが、きょうにも乾雲丸に再会せぬものでもないと、歳の市の人中をぶらりと歩いていた諏訪栄三郎。
 ふと袖にさわるもののあるのを感じて、何ごころなく見返ると……。
 思いきや! 鈴川源十郎の腰巾着《こしぎんちゃく》、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉が、どういう料簡《りょうけん》か旅のしたくを調えて、今や自分の袖口に何か手紙|様《よう》のものを押し入れようとしている。
 コヤツ! 何をするッ!
 と考える先に、栄三郎の手はもう与吉の肘《ひじ》にかかっていた。
「おのれッ!」
「あ! ごめんなさい。人違いでございます」
「黙《だま》れッ! 貴様は過日《いつぞや》の――うむ、よし! そこまで来いッ!」
 引ったてようとする。ひたすらあやまって逃げようとする。この二人の争いに、気の早い周囲の江戸っ児がすぐにきんちゃく切りがやり損じたと取って、そこで、掏摸《すり》だ、掏摸だ! とばかりに与吉をかこんで袋だたきにし始めると、かなわぬと見た与吉、やにわに道中差しを抜いて通路を開きながら突っ走ってしまった。
 有難迷惑な弥次馬のおかげ、与吉をおさえそこねた栄三郎が、念のために袂をさぐってみると、出てきたのは、いま与吉が投げこんでいった丹下左膳から栄三郎へ……すなわち、夜泣きの刀乾雲丸から同じ脇差坤竜丸へあてた一通の書状!
 混雑中ながら猶予《ゆうよ》はならぬ。手早く封を切って読みくだした栄三郎なにごとかサッ! と顔色を変えたと思うと、手紙を、武蔵太郎の柄がしらといっしょにグッと握りしめて遅ればせだが、与吉の去った方へしゃにむに急ぎだした。
 剣怪左膳の筆跡――そもそも何がしたためてあったか? 妖刀乾雲、左膳の筆を藉《か》りていかなる文言をその分身坤竜にもたらしたことか?
 それはさておき。
 人を左右に突きのけてくる栄三郎の浪人姿を、群集の頭越しにみとめた忠相は、あれが今の掏摸にあった侍というささやきを耳にするや、何を思ったか、いきなり足を早めて彼をつけだした。
 カッ! と血が頭脳にのぼっているらしい栄三郎、人浪を押しわけてよろめき進む。男をはねのける。女はつきとばす、子供も蹴散らしてゆくがむしゃらぶり。
 忠相も、いそいでそれに続いたが、嫌というほど誰かの足を踏んで、痛いッ! と泣き声をあげられた時は、大岡越前守忠相、にこやかな笑顔を向けて丁寧《ていねい》に詫びた。
 しかし、
 駒形を行きつくして、浅草橋近くなったころは、与吉も追っ手も影を失って、栄三郎もはじめてあきらめたものか、悄然《しょうぜん》とゆるんだ歩を、そこから折れて瓦町のとある露地へ運び入れた……市のにぎわいをうしろに。
 忠相が後から声をかけた。
「彼奴《きゃつ》、稀代の韋駄天《いだてん》、駿足《しゅんそく》でござるな、はははは、それはそうと、貴殿、落とし物はござらぬかの?」
 振り返った栄三郎は、そこに、見おぼえのない上品な武士が立っているので、思わずむっとして問い返した。
「拙者に何か仰《おお》せられましたか」
「いや、ただいまのさわぎ……彼者《かのもの》は、貴殿にこの書面を捻じこんでいったに相違ござるまいと存ずる。なに、これはただ拙者の推量だが、はははは、いかがでござるな?」
 との忠相の言葉に、栄三郎は、はっと気がついたようにじろりと忠相を見やりながら踵《くびす》をめぐらそうとしたが!
 今のいままで手につかんでいたはずの左膳の手紙が! どこでいつ落としたものかなくなっているので、おや! と忠相の手もとを見ると!
 これはまたどうしたというのだ。
 いつ、どこで拾ったものか、皺くちゃのその手紙がちゃんと忠相の手にあるではないか。
「やッ! そ、それは――」
 と、あわてふためいた栄三郎が、われを忘れて跳びかかろうとするとヒョイとさがった越前守忠相、手にした封書の裏おもてを、じらすように栄三郎の面前にかざしてにっこりした。

[#ここから4字下げ]
諏訪栄三郎殿
[#ここで字下げ終わり]
[#地から9字上げ]隻腕《せきわん》居士 丹下左膳拝

「いかにもその手紙は、拙者の落としたもの。不覚……ともなんとも言いようがござらぬ、恥じ入ります。お拾いくだされた貴殿にありがたく厚くお礼を申します。いざ、お渡しを願いたい――」
 これが町奉行の大岡越前守とは知る由もない栄三郎、よし零落《おちぶ》れて粗服《そふく》をまとうとも、面識のない武士には対等に出る。かれは必死に狼狽《ろうばい》を押しつつんで、こう言って二、三歩進み出たが、忠相は同時にあとへさがって、
「お手前が諏訪栄三郎といわるる。それはよいが、これ、裏に丹下左膳――隻腕居士拝とある。そこで諏訪氏貴殿におたずね申すが、この片腕は左腕でござろうの? いや、左腕でなくてはかなわぬところ、どうじゃ」
 ときいた忠相のあたまに、電光のようにひらめいたのは、当時府内を震憾《しんかん》させている逆けさがけの辻斬り、その下手人《げしゅにん》も左剣でなければならない一事だった。
 で、然り――という意をふくめて驚きながら栄三郎がうなずくのを見ると、忠相は、
「然らばこの一書、貴殿にお返し申すことは相成らぬ」
 きっぱり断わって、さっさと懐中へしまいこんでしまった。
 無体《むたい》なことを! 刀にかけても奪還せねば! と栄三郎が面色をかえてつめよった時、見ると、相手のつれらしい侍が急ぎ足に近づいてくるので、残念ながらこの曰《いわ》くありげな二人に挟まれて、種々問いただされてはよけいなあやまちを重ねるのみと、栄三郎は倉皇《そうこう》として忠相を離れ、逃げるように露地の奥へ消えていった。
「御前《ごぜん》、こんな所にいらっしゃろうとは存じませぬゆえ、ほうぼうおさがし申しましてござります」
 という声に、忠相がふり向くと与吉を追っていった伊吹大作である。
 多勢とともに追跡してみたが、なにしろあの人出、一度は旅|合羽《がっぱ》へ手をかけたもののスルリと抜けられて、ついそこの通りでとうとう与吉の影を見失ったという。
「面目《めんぼく》次第もござりませぬ、いやはや掏摸をはたらこうというだけあって、なんと身軽なやつで」
「掏摸? 誰が掏摸じゃ?」
「は? あの男――」
「あれは掏摸ではない」
「すると巾着切《きんちゃくき》りで? それともちぼ……」
「たわけめ。同じではないか」
「恐れ入りましてござります」
「なあ大作。他人の懐中物《かいちゅうもの》を機をもって掠《かす》めとるを掏摸と申す」
「は」
「機によって人の袂に物品を投ずる――こりゃすりではあるまい。きゃつはある者の依頼を受けて、あの人の袂に封書を投げ入れたのじゃ。よって越前、かの町人を掏摸とは呼ばぬぞ」
「あの、手紙を? なれど御前、どうしてそのようなことがおわかりになりまする?」
 と眼を円くしている大作を無言にうながして、忠相はしんから愉快そうに、左膳の書をのんだふところをぽんと一つたたいて歩き出した。
「ははあ。なるほど委細《いさい》そこに!」大作は自分の胸を打つ真似《まね》をして、
「いや、さようでございましょうとも! さようでございましょう!」
 感に耐《た》えて首を振りながらお供につづこうとすると、忠相はぼんやりと立ちどまって、いま栄三郎のはいって行った露地の口を見守った。
 狭い裏横みち。
 角《かど》にささやかな空地《あきち》。
 材木が積んであって、子供が十四、五人がやがや遊んでいる。
 空高く、陽は滋雨《じう》のごとく暖かだ。
 ひさしぶりに満ちたりるまで巷の気を吸い、民の心と一つに溶けた大岡忠相、カンカン照る日光のなかで子供と同じ無心に返ってそのさざめきを眺めている。
 一段高い積み木の上に正座した年かさの子。
「南町奉行大岡越前であるぞ。これ面《おもて》をあげい。そのほう儀……」
 お白洲《しらす》ごっこだ。道理で、地面に茣蓙《ござ》を敷《し》いて、あれが科人《とがにん》であろう、ひとりの子供が平伏している。左右にいながれるお調べ方、つくばい同心格の子供達、眉《まゆ》を吊《つ》りあげ、頬をふくらせたその真面目《まじめ》顔。
 越前守が苦笑しているうちに、あとの大作はぷッとふきだしてしまった。
 はるかむこうに、さっき田原町を出て来た家主喜左衛門と鍛冶富、また大岡に会ったと外《よそ》ながら慇懃《いんぎん》に小腰をかがめる。本所の鈴川方へ行く途中とみえる。これを見ると忠相は、さては誰か顔を知っておる者にみつかったな! と足を早めて立ち去ったが、あるかなしかの風が白い砂ほこりを低く舞わせて、うしろに子供の大岡様の声がしていた。
「そのほう儀、去る二十九日、横町の質屋の猫を天水桶《てんすいおけ》に突っこんで、そのまま窓からほうりこんだに相違あるまい。まっすぐに申し立ていッ――」

「姐御ッ」
 と飛びこんで来たけたたましい与吉の声に、長火鉢《ながひばち》の向うからお藤は物憂《ものう》い眉をあげた。
「なんだね、そうぞうしい」
 立て膝のまま片手で畳をなでているのは、煙管《きせる》を探すつもりらしい。
 櫛まきお藤の隠《かく》れ家《が》である。
「いけねえ。落ち着いてちゃあいけねえ!」と与吉は、わらじをとくまも呼吸《いき》を切らしているが、家内のお藤は大欠伸《おおあくび》だ。
「また始まったよ、この人は」
 てんで相手にしそうもないようすだけれど、それでもさすがに、ぬっとあがって来た与吉の道中姿を見るとお藤もちょっと意外そうに顔を引きしめて、
「おや! お旅立ち?」
「ヘヘヘヘ
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