んの声が、即《つ》かず離れず中間を縫ってゆく。
……聞いている喜左衛門《きざえもん》の皺《しわ》の深い顔に、思わず明るい微笑がみなぎると、かれは吸いかけた火玉をプッ――と吹いて、ついで吐月峰《はいふき》のふちをとんとたたいた。
三十番神の御神燈に、磨《みが》き抜いた千本格子。
あさくさ田原町三丁目家主喜左衛門の住居である。
長火鉢のまえに膝をそろえた喜左衛門は、思いついたように横の茶箪笥《ちゃだんす》から硯箱《すずりばこ》をおろして、なにごとか心覚えにしたためだした。
こう押しつまると、年内にかたづけたい公事用が山のようにたまっているところへ、きょうも朝から何やかやと町内の雑事を持ちこまれて、茶一つゆっくりのんでいられないのだった。
走り奴《やっこ》の久太《きゅうた》が、三が日《にち》の町飾りや催し物の廻状《かいじょう》を持ってきたあとから、頭《かしら》の使いが借家の絵図面を届けてくる。角の穀屋《こくや》が無尽《むじん》の用で長いこと話しこんで行ったばかりだ。
「いやはや!」と喜左衛門はつぶやいた。「こういそがしくちゃ身体が二つあってもたりねえ」
と、ふと彼は考えこんで、そのまま筆を耳にはさんで腕を組んだ。
屈託顔《くったくがお》。
もとの店子《たなこ》おさよ婆さんの一件である。
三間町の鍛冶《かじ》屋富五郎、鍛冶富に頼まれて、奥州の御浪人|和田宗右衛門《わだそうえもん》とおっしゃる方を世話してこの三丁目の持店《もちだな》のひとつに寺子屋を開かせた。が、まもなく宗右衛門は死んでしまう、あとに残ったおさよお艶《つや》の親娘《おやこ》の身の振り方については、鍛冶富ともよく談合したうえ、おさよ婆さんのほうは、じぶんと富五郎が請人《うけにん》にたって本所法恩寺橋まえの五百石お旗本鈴川源十郎様方へ下女にあげ、娘のお艶には、これも自分が肝《きも》いりで、当時売り物に出ていた三社《さんじゃ》前の掛け茶屋当り矢を買いとってやらせてみたのだったが……。
鍛冶富は、人のうわさによれば、だいぶお艶に食指が動いてそのために、金もつぎこめば、また到底《とうてい》そのほうの望みがないとわかってからは、かなり激しく貸し金の催促もしたようだけれど。
おれはただ、店子といえば子も同然、大家といえば親も同然――という心もちから、慾得《よくとく》離れてめんどうをみただけのことなのだ。
それだのに。
お屋敷へあがったおさよからは、便りどころかことづて一つあるではなし、娘は娘で、勝手に男をこしらえて今はどこにどうしているとも知れず店をしめて突っ走ってしまった。
お艶は何をいうにも若い女のこと、ただ折角《せっかく》のこの家に敷居が高くなるだけで、それも言ってみれば自業自得《じごうじとく》だが、婆さんは年をくっているくせにあんまりとどかなすぎる。が、そんなことを一々怒っていた日には、家主は癇癪《かんしゃく》が破裂して一日とつとまらぬ。とはいえ、聞くところでは鈴川様は、大して御評判のよくないお屋敷だとの人の口もある。あれやこれやを思い合わせると、苦労性だけに喜左衛門は、お艶の身の上といい、とりわけおさよ婆さんのことがどうもこのごろ気にかかってならないのだ。
「娘っこも娘っこだが、おふくろもおふくろだて」
われ知らず口に出た喜左衛門へ、女房が茶《ちゃ》の間《ま》へはいってきて受け答えをした。
「お前さん、おさよさんとお艶|坊《ぼう》のことを気におやみだねえ」
「うん。虫の知らせと言おうか。なんとなくこう胸騒《むなさわ》ぎがしてならねえ」
「そうだねえ。そう言えばわたしもこの二、三日あの親娘の夢見が悪いのさ。どうだろう、いっそ本所のお屋敷へうかがってみては?」
「うん……そうよなあ」
と喜左衛門が生《なま》返事を洩らした時、勢いよく格子があいて、
「おうッ、喜左衛門どん、いるかね!」
「押しつまりましたね」
鍛冶富は、すわるとすぐ煙草《たばこ》入れをスポンと抜いてから言った。
「御多用でごわしょう……」
ぽつんとこたえて、喜左衛門は気がなさそうである。鍛冶富はクシャクシャと顔中をなでまわして、
「いえね。なんてえこともなく、ただこう無闇《むやみ》に気ぜわしくてね、ははは、やりきれません」
で、今さら、年の瀬の町の騒音が身にしみるようにそしてそれを噛んで味わうように、二人はちょっと下を向いてめいめいの手の甲をみつめた。
喜左衛門の女房《にょうぼう》が茶を入れてすすめる。
ふたりはいっしょに音を立ててすすった。
喜左衛門は髪も白いほうが多く、六十の声をかなり前に聞いたらしい年配だが、富五郎は稼業《かぎょう》がら、おまけに今でも自ら重い槌《つち》を振っているだけあった。年齢も喜左衛門よりははるかに下だけれど、それにしても頑丈な身体つきをしている。腕っぷしなぞ松の木のようだ。
「なあ喜左衛門どん」
「はい」
しばらく何かもそもそしていた鍛冶富は、やがて思いきったように口をひらいた。
「おさよさんのこってすがね――」
と聞いて、喜左衛門が、ほん、ほん! というような声を立てて急に膝を乗り出すと、鍛冶富もそれに勢いがでて、
「いや、お笑いになるかも知れねえが、ちょいとその、鈴川様のお屋敷について嫌なことを聞きこみしたんでね……」
「ほ! なんですい?」
「まあさ、あそこへおさよさんを入れたのは、お前さんとわたしが請人《うけにん》。請人と言えば親もと代りのもんだから先方から変な噂を耳にするにつけて、わたしもいろいろと気をもんでいましたがね、今度はどうも聞きっ放しにならねえから、こうしてお話しにあがったようなわけで――」
「はい。いや、殿様のお身持ちのよくねえことやなんかは、わしもちょくちょく聞いておりましたがな、はい、一体全体まあどんなことが起こりましたい? 実はな富さん、おさよ婆さんのことといい、あのお艶坊のほうといい、今度の和田さんの後始末にだけはこの爺《じじ》いも手をやきましたよ。もう人の世話はこりごりだといつも婆《ばあ》さんとこぼしているくらいさ。ま、お前さんのまえだが、わしもこの件にはえらく気を使ってな、いっそのこと出かけていって、おさよさんを願いさげてお前さんにでも引きとってもらおうかと、今も、なあ婆さんや、はい、これとね、まあ、話しておりましたところですよ」
「ヘヘヘ、お艶さんもどうも困りもんだがあれはお奉行所へも捜《さが》し方を願ってあることだし、それより今日のはなしは……なにね、あっしの友達に御用聞きの下で働いている野郎《やろう》がありましてね、そいつが言うんだが、先日なんだってえじゃあありませんか。あの雨の晩にお屋敷に斬りこみがあって、死人や怪我《けが》人がうんと出たそうじゃあありませんか。何か、お聞きになりませんでしたかね?」
「はい。そう言えば、そんなようなこともちらと小耳にははさみましたが――それでなんですい、その暴れこんだ連中てのは? 意趣遺恨《いしゅいこん》とでもいうような筋あいですかい?」
「それがさ、その下っ引きの言うことにゃあ、なんでも同じ晩に二組殴りこみをかけたらしいんだが、あとから来たのは火事装束のお侍が五人――というんですけれど、さあ、なんのための斬り合いだか、そいつが皆目《かいもく》わからねえ」
「火事装束? へんな話だね。なんにしても押し迫ってから物騒《ぶっそう》な」
「さいでげす。でね、その野郎は眼を皿のようにしてかぎまわっているんですがね、さあ、口裏をひいてみるてえと、こんなこたあ大きな声じゃ言えねえが、どうも鈴川様はだいぶお上《かみ》に眼をつけられてるらしいね。ことによると近々お手入れがあるか知れねえと。いや、これあね、わたし一人の考えだが、ははは……ね、とまあ、言ったような次第さ。どうしたもんでごわしょう?」
「事件が起こったあとじゃあ、おさよさんもかわいそうだし――」
「それに、係りあいでこちとらの名が出るようなこたあまっぴらだ」
「ようがす!」喜左衛門は考えていた腕をほどいて、
「お前さんも、今のところ乗りかけた船でしかたがねえとあきらめて、どうだね、せわしい身体だろうが、一つこれから私といっしょに本所に出向いてくれませんかい……おい! 婆さんや、あっちの羽織《はおり》を出してもらおう。ちッ! 用のある時はきまってそこらにいやあしない。いい年をしやがって、あんな金棒引《かなぼうひ》きもないもんだ。ばあさん!――しようがねえなあ。婆あッ!」
家主喜左衛門、だんだんカンカンになって、ポッポと湯気をあげている。
客――でもないが、鍛冶屋富五郎が来ているあいだに、ちょっと家のまえの往来でも掃《は》いておこうと、喜左衛門の女房は箒《ほうき》を持って表へ出た。
いいお天気。
日の光が町全体に明るく踊って、道ゆく人の足もおのずから早く、あわただしい暮れの気分を作ってるなかにも、物売りの声がゆるやかに流れて、徳川八代泰平の御治世《ごじせい》は、どこか朗《ほが》らかである。
歳《とし》の市《いち》へ、伐《き》り出した松を運ぶ荷車が威勢よく駈けて通る。歳暮の品を鬱金木綿《うこんもめん》の風呂敷《ふろしき》に包んで首から胸へさげた丁稚《でっち》が浅黄の股引《ももひき》をだぶつかせて若旦那のお供《とも》をしてゆく。
「おばちゃん……」
という声に振り返ると、長屋の由《よし》公がお袋《ふくろ》に手をひっぱられて横丁の人|混《ご》みに消えるところだった。その母親の白い顔が笑って、何かそそくさと挨拶をしたようだった。
泣いても笑ってもあと何日――町へ出てみると、しみじみとそんな気がするのだった。
そうだ。気は心だからあの児へ何かお歳暮をやらなくちゃあ……女の子達には出ず入らずで一様に羽子板がいいけれど、腕白《わんぱく》にはやはり破魔《はま》の弓かしら?
こんなことを考えて、何度も腰をのばしながら、喜左衛門の女房はせっせと格子の前を掃いている。
うつ向いて箒の手を動かしていると、眼に入るのは近くを往来する人の足ばかりだ。
知った人が声をかけてゆく。
通る人の足をよごさないように気をつけてはいたが、誰かにお低頭《じぎ》をされた拍子だった。ふと箒の先に思わぬ力がはいって折りから掃きためてあった塵埃《ごみ》が飛んで、ちょうど前を歩いていた人の裾から足袋《たび》へしたたかかかった。
はっとして顔をあげると、
着流しに蝋鞘《ろうざや》の大小を差した、すこしふとり気味の重々しいお侍である。
切れ長の眼《まな》じりに細い皺を刻んで、じっと立ちどまったまま、埃《ほこ》りを浴びた足もとと、箒をさげてどぎまぎしている老婆の顔とをしずかに見くらべている。
喜左衛門の女房は、背中に火がついたように狼狽《ろうばい》した。
お手うち! 斬られる! 斬られないまでも、どんなおとがめがあろうも知れぬと思って、はっとすると舌がこわばった。
「あれッ! とんだ、また、粗相《そそう》をいたしまして! どうぞ殿様、どうぞ御料簡《ごりょうけん》なされてくださりませ」
とっさにこう詫《わ》びると同時に、のめるように飛んで行って前掛けの先で侍の足を払おうとした。
と、侍は二、三歩さがって、おだやかに笑った。
「ああ、よいよい。あやまちは誰にでもあること――自分で拭くから心配はいらぬ」
言いながらもう懐紙《かいし》を出して、ゆっくりと裾をはらっている。
相当の年齢。服装なども、眼にはつかないが、争えない高貴なおもむきを示して、何よりもそのふくよかな穏顔《おんがん》に、人なつっこい笑みが春の海のように輝いていることだった。
ぼんやり見ていた喜左衛門の女房はわれに返ったように再び侍の足へ突進して、転ぶようにしゃがむなりまたほこりをたたきだした。
「わたくしの不調法でございます。お手ずからはあんまりもったいなくて、恐れ入ります。どうぞおゆるし遊ばして」
「いや。それにはおよばぬ」
侍は急いで身をひくと、手を取らんばかりにして、なおも争う老婆を立たせた。
「ははは、なんのこれしき! お前も家にはいっては人
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