ない。
 左膳、栄三郎、泰軒、源十郎、その他を抱きこんでよどむ夜泣きの刀渦《とうか》に、また一つ謎の大石が投げられたのだ!
 二剣、その所をべつにしたが最後、波瀾《はらん》は激潮《げきちょう》を生み、腥風《せいふう》は血雨を降らすとの言い伝えが、まさに讖《しん》をなしたのである。
 あせりたった栄三郎、こうなった以上身を全うするにしくはなしと、
「えいッ!」
 と迸《ほとば》しらせた空《から》気合いとともに、打ちこむと見せてサッ! と引くが早いか、
「先を急ぎまする、ごめん!」
 ひとこと残して泰軒の方へ走り去ろうとすると、剣光、栄三郎の背後に乱れ飛んで、火事装束の武士達一|丸《がん》となって追い迫ったが、先ほどからこの不意の闖入者《ちんにゅうしゃ》をみとめて、泰軒を捨てて馳せ集まっていた化物屋敷の面々、今は自分の頭上の火の子だから、栄三郎ともども、ひとつに包んでかかってきた。
 見ると、泰軒はむこうで左膳ひとりを相手に斬りむすんでいる。一刻も早く屋敷のそとへ! と決した栄三郎、ぶつかった鈴川方の一人をパッサリ! と割りさげておいて、泥沫《はね》をあげて左膳を襲い、そのダッとなるところをすかさず、泰軒をうながして母家《おもや》の縁《えん》へ駈けあがった。
 追ってくるようすはない。
 一同、火事装束の新手《あらて》を迎えて、何がなにやらわからないながらも、降雨の白い庭に力闘の真最中だ。
「泰軒先生ッ! 思わぬじゃまが入りました!」
「なんだ、あの連中はッ」
「やはり、乾雲坤竜をねらう輩《やから》と見えまする」
「すりゃ、左膳とあんたにとって共同の敵じゃな――しかし手ごわそうな!」
「は。残念ながらひとまずこの家は引きあげたほうが……」
「それがよろしい。互いに無傷《むきず》なのが何よりだ。まもなく夜も明けよう」
 そうだ。まもなく夜も明けよう。
 縁《えん》の端《はし》、納戸のあたりにぼうっと朝の訪れが白んで見える。
「こう行こう!」
 と歩き出した二人は、おさよ婆さんのとらわれている納戸のまえにさしかかった。

 ガラリ……格子戸があいたので、お艶と弥生が同時に顔を向けると、しずくのたれる傘をさげた櫛まきのお藤。
「ごめんなさいよ。ちょいと通さして――」といいながら、もう傘と足駄《あしだ》をつまんであがって来たかと思うと、ひらりと二人のあいだを走りすぎて、すぐ裏口から抜け出て行った。
 うらは別の露地へひらいて、右へ切れてまっすぐに行けば第六天|篠塚稲荷《しのづかいなり》のまえへ出る。
 軒づたいにそこまで逃げのびたお藤は、ほっとしてうしろを振り返った。
 追って来る御用提灯もなく、夜の雨が遠くの町筋を仄《ほの》白くけむらせている――あれほどはりつめた捕手の網もどうやらくぐりぬけ得たらしい。が、ゆすり騙《かた》り博奕兇状《ばくちきょうじょう》で江戸お構えになっている自分の身に今さらのように気がついてみると、いまのさわぎといい、ここらは全部手がまわっているらしく、
「こりゃうっかりできないよ!」
 とお藤がひとり言を洩らした時!
「これ! 女ひとりか。この夜更けにどこへ参る?」
 という太い声が前面からドキリとお藤の胸をうった。
「は。いえ、あの、わたしはそこの長屋の女でございますが、ただいま夜中に急病人がでまして――」
「医者を迎えに行くというのか」
「はい」
「よし。気をつけてゆけ」
「有難うございます」
 で、二、三歩歩きかけた背後から!
「櫛まきお藤ッ! 神妙《しんみょう》にお縄を頂戴《ちょうだい》いたせッ!」
 と一声!
 行き過ぎた捕役の手にキラリ十手が光って!
「何をッ! おふざけでないよ!」
 構えたお藤、ちらちらと周囲を見ると、雨に伏さった御用の小者が、襷《たすき》十字も厳重にぐるりと巻いてしめてくる。
「あめの中から金太さん……て唄はあるけれど、そうすると、ここに待っていたのかえ。ほほほほほ」
 不敵にほほえみながら、懐中に隠し持った匕首《あいくち》、逆手に握ると見るまに、寄ってきた一人の脇腹をえぐるが早いか、櫛まきお藤は脱兎《だっと》のごとく稲荷の境内に駈けこんで、祠《ほこら》をたてに白い腕を振りかぶった。
「御用ッ!」
「櫛まきッ! 御用ッ!」
 ビュウッ! と捕縄《ほじょう》をしごいて口々に叫びかわす役人のむれ、社前のお藤をかこんでジリジリッとつめてゆく。
 うしろざまに階段へ一足かけたお藤の姿は、作りつけのように動かなかった。
 風のごとく表から飛びこんで来たお藤が、風のごとく裏へ吹き抜けて行ってからまもなく。
 お艶と弥生、あっけにとられた顔を見合わせているところへ、先刻お藤をかぎつけた御用聞きをさきに数人の捕吏がどやどやとなだれこんできて、
「いま、ここへ女がはいって来たろう?」
 と威猛高《いたけだか》だ。
 すばやく眼を交わした弥生お艶、何がなしに同じ意を汲みあって、まるで約束していたように等《ひと》しくとぼけた。
「いいえ、どなたも……」
「はてな?」
 と多勢が首を傾けたからさては踏みあがってくるかな? と見ていると、それでは他家《よそ》だったかも知れないと一同急いで出て行った。
 露地から屋根まで御用提灯でいっぱいで、めざす女を逃がした役人達がくやしそうになおも右往左往している。時ならぬ雨中の騒ぎに長屋の者も軒並みに起き出たようす。
「張りこみに手落ちがねえから、どっかでひっかかりやしたろう」
 どぶ板を踏み鳴らしながら、話し過ぎる岡《おか》っ引《ぴ》きの高声……お艶と弥生は、たがいに探るように瞳の奥を見つめていたが、筒抜けていったお藤については、ふたりとも何も言わずに、そのうちに戸外の物音もしずまりかけると、羊のように怖《お》じすくんでいたふたりの心もゆるんで、お艶、弥生、はじめて若い女らしく笑いあった。
 と、それを機会《しお》に、弥生はそこそこに戸口に出て、女と女の長い挨拶ののちに、露地をゆく跫音《あしおと》がやがて消え去った。
 この雨の明け方を、弥生さまはおひとりで番町《ばんちょう》とやらへおかえりになるつもりであろうが、なんというお強い方であろう! と送りだしたお艶が気がついてみると、風呂《ふろ》へ行ったはずの栄三郎様がまだ帰宅していない!
 これは、何ごとか突発したのだ! とにわかに暗い不安の底に突きおとされたお艶だったが、かれが畳に崩《くず》折れて考えこんだのは、いま出ていった弥生さまへの義理! 義理! 義理!
 水茶屋の苦労までなめただけあって、浮き世の義理には脆《もろ》すぎるほど脆いお艶であった。
 中庭に入りまじる剣戟《けんげき》の音に身をすくませて、おさよが納戸の隅にふるえていると――。
 あし音とともに、泰軒と栄三郎の話し声が近づいてくるので、おさよはいっそう闇黒の奥に縮まった。
 誰か知らないが暴れ者がふたりやって来た……こう思って見つかっては大変と、息を凝《こ》らしている。
 そとの廊下では、納戸のまえに二人が足をとめたようすで、
「お! こんなところに部屋があります」
 という若い声。すると年老った声がそれに答えて、
「ほほう。ここから戸外《そと》へ出られぬかな?」といっているから、さてははいってくるかも知れぬと思うまもなく、サッと板戸があいて、老若ふたりの浪人姿が黒い影となって戸口をふさいだ。そして暗い室内をしばらくのぞいているようだったが、やがて、ここからは出られぬことを見たものらしく、軽い失望の言葉を捨てて戸を閉《し》めた。
 二人の足音が遠ざかって、そのうちに台所ぐちからでも屋敷を出離れて行ったけはい。
 これを娘お艶の男の栄三郎と知らぬおさよは、ほっとしてまた耳を傾けた。
 今ふたり出ていったにもかかわらず、庭にはまだ剣のいきおいが漂《ただよ》って、撃ちあうひびき、激しい気合いが伝わってくる。
 栄三郎に泰軒としては。
 この鈴川の屋敷に、お艶の母おさよ婆さんが下女奉公にあがっていて、それがお艶が逃げたことから源十郎にひどいめにあわされているらしいと知っていたので、ついでに助け出したいとも思って納戸まであけてみたのだったが、世の中にはこういう変なことがすくなくない。救いを求める人と、救う目的でさがす人とが一度はこんなに近く寄りながら、たがいに相手を知らずにそのまま過ぎてしまう――これも人間一生の運命《さだめ》を作る小さなはずみのひとつかも知れなかった。
 夜もすがらの雨に、ようやく明けてゆこうとする江戸の朝。
 やがて……。
 泰軒と栄三郎が、遠く鈴川の屋敷をはなれたころ。
 ほかの側の外塀《そとべい》にぴったりついて、先刻から供《とも》待ち顔に底をおろしている五梃の駕籠《かご》があった。
 江戸の町では見かけない山駕籠ふうの粗末なつくりだが、陸尺《ろくしゃく》は肩のそろった屈強なのがずらりと並んでいて、
「エオ辰《たつ》ウ、コウ、いやに長く待たせるじゃあねえか」
「さようなあ。もういいかげん出てきそうなもんだが、こう長くかかるところを見るてえと、こりゃあひょっとすると大物のチャンバラだぜ。なあ勘《かん》」
「あたりめえよ。荒療治《あらりょうじ》だなあ。ちったあ手間のとれるなあ知れきったこった」
「それあいいが先にもだいぶんできてるのがいるっていうじゃあねえか」
「そのかわり、こっちだって一粒|選《よ》りだ。なあに、案ずることあねえやな」
「俺《おれっ》チだっていざとお声がかかりゃあ飛びこんでって暴れるんだ。先生ら、こう、ぴかつく刀を振りまわしてよ、エエッ……なんてんで、畜生ッ、うまくやってるぜ」
「全くだ。おれも乗りこんでやってみてえなあ」
「シッ! おおい、みんな! 声が高えぞ!」
「黙ってろ黙ってろ! それより、用意はいいな。お出になったらすぐ往くんだ。コウレ、七公、尻《けつ》ウさげろってことよ」
 わいわい言いあっているが――。
 多少わけ知りらしい口調といい、ことに、この十人の男が、いずれも六尺近い、仁王のような頑丈《がんじょう》なのばかりがそろっていることといい、決して普通の駕籠|舁《か》きとはうけとれない。
 この、力士のような堂々たる人足《にんそく》が十人、いっせいに鈴川方の塀の木戸へ眼をあつめていると、はたして、パッと内部から戸を蹴りあげて走り出た五人の火事装束!
 首領らしい老人を先頭に、それぞれ抜き身を手に、すばやく駕籠へおさまると、
「そら来た! やるぜ!」と合図の声。
 五つの駕籠がギイときしんで地を離れたかと思うと、棒鼻《ぼうはな》をそろえて――。
 エイ、ハアッ!
 ハラ、ヨウッ!
 見るまに駈け出した五つの駕籠、早くも朝寒の雨にのまれて、通り魔の行列のように、いずくともなく消えてしまったが、それは実に驚くべき迅速《じんそく》な訓練であった。
 どこから来てどこへ去ったとも知れない五つの駕籠!
 その中の火事装束の五人の武士。
 かれらもまた、乾坤二刀を奪ってひとつにせんとするものであろうか?……とにかく、江戸の巷に疾風のごとき五梃駕籠が現われたのはこの時からで、あとには、一夜の剣闘に荒らされた鈴川の屋敷に、朝の光になごむ氷雨がまたシトシトとけむっていた。

   合《あ》わせ鏡《かがみ》

 冬らしくもない陽がカッと照りつけて、こうして日向《ひなた》に出ていると、どうかすると汗ばむくらいだ。
 ウラウラと揺れる日の光のにおいが、障子に畳にお神棚《かみだな》に漂って、小さなつむじ風であろう、往来の白い土と乾いた馬糞《ばふん》とがおもしろいようにキリキリと舞いあがって消えるのが、格子戸ごしに眺められる。
 裏の銭湯で三助を呼ぶ番台の拍子木《ひょうしぎ》が、チョウン! チョウン! と二つばかり、ゆく年の忙《せわ》しいなかにも、どこかまだるく音波を伝える。と、それを待っていたかのように、隣家の杵屋《きねや》にいっせいにお稽古の声が湧いて、きイちゃん、みイちゃんの桃割れ達が賑やかに黄色い声をはりあげた。
 くろウ、かアみイの、ツンテン。
 むすウぼオれエた――るうウウ。
 錆《さ》びたお師匠《ししょう》さ
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