い》につまずいて、栄三郎が倒れるそこを左膳が斬りおろす……。
 が、その時!
 下からささえた武蔵太郎は刃ごたえがあって、一声|肝腑《かんぷ》をえぐる叫びをあげたのは剣狂丹下左膳であった。
 人を斬ってばかりいて、近ごろ斬られたことのない左膳、しばらく忘れていた鉄の味を身に感じて、獣《けもの》のようなおめきとともにたたら足を踏んで縁にのめり出たが、あらためるまでもなく、傷は、右膝に食い入ったばかりで、骨には達していない。大事ないと見きわめるや、かれは再び猛然と乾雲丸を取りなおした。
 隻眼隻腕、おまけに顔に金創の溝ふかい怪物……このうえ跛者とくりゃあ世話アねえや! ととっさに考えるとそこは老獪《ろうかい》の曲者《くせもの》、火急の場にも似ず、痛みを耐えるようににっと歯を噛んだ――笑ったのだ。
「さあ己《おの》れッ! この礼はすぐに返してやる!」
「…………」
 答のかわりにはね起きた栄三郎は、直ちに跳躍して追撃を重ねる。それを左右に払いつつ、左膳は戸口を背に一歩一歩さがってゆく。
 せまい庵内なればこそ、八転四通の左膳の剣自由ならず、道場の屋根の下に慣れた栄三郎も五分五分に往けるのだが、一度野天に放したが最後、地物《ちぶつ》に拠《よ》り、加勢をあつめ、奔逸《ほんいつ》の剣手鬼神の働きを増すことは知れている。ことに戸外では、泰軒が多勢を相手に悪戦しているのだ。そこへ左膳を送り、自分が出て行けば、泰軒とともに苦境におちることは眼に見えてあきらかだ。
 なんとかして室内にくいとめておかねば――と栄三郎が右からまわって退路を絶とうとしたとき、左膳の左手がビク! と動いたと見るやはや乾雲風を裂いて飛躍しきたったので、突っ離すつもりで身をひいたとたん、土間に降りた足音がして、六尺棒のような左膳の身体がスルスルと戸ぐちをすべり出た。
 その出たところを泰軒が見たのだった。
 泰軒は、ちらと一瞥《いちべつ》をくれた……だけだったが、その間隙《すき》が期せずして源十郎に機会を与えて、泥を飛ばして踏みこんだ鈴川源十郎、流光雨中に尾をえがいて振りおろした――。
 のはいいが。
 あいだに張り出た立ち樹の枝に触《ふ》れて、くだかれた木肌や葉が、露を乱してバラバラッ! と散り飛ぶのをいちはやくそれと感知して、泰軒、身を低めて背《しり》えに退いたから源十郎はすんでのことでわれと吾が足を愛刀の鋩子《さき》にかけるところだった。
 剣閃《けんせん》、雨に映え、人は草を蹂躪《じゅうりん》して縦横に疾駆する。
 たけなわ。
 さもなくば、初冬|細雨《さいう》の宵。
 浅酌《せんしゃく》低唱によく、風流詩歌を談ずるにふさわしい静夜だが……。
 いま、この化物屋敷には、暗澹《あんたん》として雲のたれる空の下に、戟渦《げきか》巻きあふれて惨雨《さんう》いつやむべしとも見えない。
 血に染んだ草の葉を打つ雨の音。
 斬られた者のうめき声が、泥濘《でいねい》にまみれてそこここに断続《だんぞく》する。濡れた刀が飛び違い、きらめき交わして、宛然《えんぜん》それは時ならぬ蛍合戦《ほたるがっせん》の観があった。
 源十郎の鋭刃に虚をくらわせた泰軒。
 同時にうしろに、氷《ひょう》ッ! と首すじを吹き渡る剣風を覚えて、危なく振りむいた――のが早かったかそれとも、離室を出た一拍子に、泰軒の姿をみとめて駈けよりざま、乾雲をひるがえして背撃にきた左膳のほうが遅かったか……とにかく左膳のたたっ斬ったのは、やみを彩る数条の雨線だけで、泰軒先生最初にぶんどった土生仙之助の大|業物《わざもの》を車返しに、意表にでて後ろの源十郎へ一|薙《なぎ》くれたかと思うと、このときはもう慕いよる半月形の散刀に対して、無念無想《むねんむそう》、ふたたび静に帰《き》した不破《ふわ》の中青眼。
「乞食野郎《こじきやろう》ッ! 味をやるぜ!」
 心から感嘆した左膳の声だ。
 乾雲を追って部屋を走り出た坤竜。栄三郎が雨をすかして庭面《にわも》を見渡すと、向うにささやかな開きをなしている草むらのあたりに、泰軒を囲んでいるとおぼしき一団の剣光がある。
「うぬッ! こうなれば一人ずつ武蔵太郎に血をなめさせてくれる!」
 と、栄三郎が先方を望んでまっしぐらに馳《は》せかかった刹那! その出足に絡むように、つと闇黒からわいて現われた黒影!
「一手、所望《しょもう》でござる!」
 立ちふさがって、しずかな声だった。

 江戸の町々を寒く濡らして、更けゆく夜とともに繁くなる雨脚《あまあし》……。
 地流れをあつめて水量の増した溝から、泥くさい臭気がぷうんとお藤の鼻をつく。
 両側の軒が迫り合って、まるで屋根の下のような露地の奥。さしかけた傘を、庇《ひさし》を伝わりおちる滴《しずく》が正しく間《ま》をおいて打って、びっくりするほど大きくこもって聞こえた。
 雨に寝しずまる長屋つづき。
 屋内では、お艶と弥生が、たがいの涙にまた新しい涙を誘われて、何かクドクドと掻きくどいているらしい。
 丹下左膳が思いをかけている弥生を煽《あお》りたてて栄三郎への慕念をたきつけ、それによって恋のうずまきをまんじ[#「まんじ」に傍点]に乱してやろうと、頼まれもしない嫉性鬼女《しっしょうきじょ》のお節介《せっかい》に、この雨のなかを、こうして麹町くんだりからわざわざ恋がたきをつれ出してきたお藤、御苦労にもおもてに立っていくら聞き耳を立てていても掴みあいはおろか、いっこうにいい募《つの》るようすだに見えない。
 お艶、栄三郎のむつまじい住いを見せてやっただけでも、お藤は相当に弥生をいじめ得たわけだが、もっともっと弥生が恥をかくようなことにならなければ、お藤としては腹の虫が納まりかねるのだ。ところが、いつまで待っても二人は泣き合っているばかり……これでは櫛まきお藤、初めの目算《もくさん》ががらりはずれたわけで、いまさら引っこみもつかず、なおも格子の隙に耳をすりつけていると――。
 先刻から、露地口をこっちへ、犬のように忍んでいる黒い影があった。
 それがこの時まで、すこしむこうの溝板《どぶいた》の上にうずくまっていたが、いよいよお藤の姿を確かめ得たとみたものか、急に隠れるように後へ戻って、そっと往来へ走り消えた……のをお藤は、家の中へばかり意を注いでいて、気がつかなかった。
 その家の中では。
 おなじ恋の辛さに、女同士のなみだを分けるお艶と弥生。
 ――弥生様は、どうしてわたし達の隠れ家を突きとめて、しかもこの雨の深夜に、何しにいきなり乗りこんでいらしったのだろう? とこれが一ばん先にお艶の頭へきたのだったが、座に着いてから今まで、言葉もなくただ泣きくれている弥生を見ているうちに、なんということなしに自分も涙をおさえきれなくなって、ほろりと一つ落としてからは、あとはもう言うべきことのすべてが失《う》せて姉妹のように手をとり合わぬばかり、泣いて泣いて、泣きつくせぬ両人であった。
 うしなった恋に涙を惜しまぬ弥生と。
 得た恋の不安、負けた相手への思いやりに、またべつの嘆きをもつお艶と……。
 ようよう泪を払って、弥生がしんみりとお艶に物語ったところは。
 栄三郎へかたむけた自らの恋ごころ。亡父鉄斎の意企《たくらみ》。夜泣きの大小の流別。おのが病のこと……など、など。
 そして、
「わたしはもう帰ります。なんのためにおじゃまにあがったのか、じぶんでもわかりません。栄三郎様にはお眼にかからぬほうがよろしゅうございます……ただおふたりともお身体をお大事に」
 起ちあがりながら、弥生はつけたした。
「お艶さま。どうぞわたしの分もいっしょに栄三郎様へお尽くしなすってください。あの方は、道場にいらっしゃるころから、寒中でも薄着がお好きで、これから寒さへ向かいますのに、もしやお風邪《かぜ》でもと、ほほほ、あなたというお人がいらっしゃるのに、とんだよけいなことを申しました。では、わたしの参りましたことは、おっしゃらないように――夜中失礼いたしました」
 と、強い弥生は、もういつもの強い弥生であった。
 が、それと同時に、弱いお艶はすでにいつもの弱いお艶に返って勝った恋のくるしさに耐え得でか、わッ! と声をあげて哭《な》き伏したので、これを耳にした戸外のお藤、
「なんだい一体! おもしろくもない愁嘆場《しゅうたんば》だよ。また泣きだしゃがった!」
 われ知らず口にのぼしてつぶやいた拍子に!
 雨音を乱して近づく多人数の人の気!
 はっとして露地の入口に向けたお藤の眼に、ほの光る銀糸の玉すだれをとおして映ったのは、いつのまにどこから湧いたか、真っ黒ぐろに折り重なった捕手《とりて》の山! 十手の林! しいんと枚《ばい》をふくんで。
 おやッ! と胆を消しながらもそこは櫛まきの大姐御《おおあねご》、にっと闇黒に歯を見せてすばやく左右の屋根を仰ぐと、どっこい! 人狩りの網に洩れ目はなく、御用の二字を筆太に読ませた提灯《ちょうちん》が、黄っぽい光を雨ににじませて、そこにもここにも高く低く……。
 ふくろ小路《こうじ》だ。にげみちはない。
 と、とっさに看取した櫛まきお藤、おちょぼ口を袖でおさえると、ひとりでに嬌態《しな》をつくった。
「あれさ、野暮《やぼ》ったいじゃないか、いやに早い手まわしだねえ!」

 一手|所望《しょもう》だ……という男の声は、算《さん》をみだした闘場において、確かなひびきをもって栄三郎の耳をうった。
 鼻と鼻がくッつきそう――闇黒をのぞくまでもなく、相手は、ふり注ぐ雨に全身しぼるほど濡れたりっぱな武士!
 鈴川源十郎の化物屋敷には、まだ雨中剣刃の浪がさかまいているのだ。
 泰軒があぶない! と見て踏み出した栄三郎も、眼前に立ち現われたこの侍の相形《そうぎょう》には、思わず愕然《ぎょっ》として呼吸を切った。
 正規の火事|装束《しょうぞく》――それもはっきりと真新しく、しかるべき由緒《ゆいしょ》を思わせる着こなし。
 それが抜き放った大刀をじっと下目につけたまま、栄三郎の気のゆえか、どうやら角頭巾《かくずきん》の下から眼を笑わせているようだが、剣構品位《けんこうひんい》尋常でなく、この場合、おのずと立ち向かった栄三郎、何やらゾクッ! と不気味でならなかった。
 なに奴《やつ》?
 地からせり上がったか、それとも闇黒が凝《こ》ったか――とにかく、鈴川邸内の者とは見えない。
 とすれば?
 駈けつけた敵の助勢であろうか、それにしても、このものものしい火事場の身固めと、なんとなく迫ってくる威圧、倨傲《きょごう》の感とは、なんとしたことだ……。
 刀をつけながらも、不審《ふしん》にたえない栄三郎が、さまざまに思い惑って、ちらとそばのやみに眼をくばると、ふしぎ! にも落ち残った葉を雨にたれた木立ちのかげに、同じ装束《しょうぞく》の四、五人がそれぞれ手を柄頭に整然とひかえている。
 通りがかりか、ないしは志あってか、この一団の火事装束、いま血戦の最中にこっそり邸内に忍び入って来たものに相違ない。
 夜陰《やいん》に跳梁《ちょうりょう》する群盗の一|味《み》!
 それが偶然にもこの修羅《しゅら》場に落ちあったものであろう。逡巡《しゅんじゅん》するはいたずらに時刻の空費と考えた栄三郎、躍動に移る用意に、体と剣に細かくはずみをくれだすと、機先《きせん》を制《せい》してくるかと思いのほか、正体の知れない火事装束の武士、あくまでも迎え撃ちにかまえて、揶揄《やゆ》するごとく一刀を振り立てながら、
「お手前は――? 坤竜かの?」落ち着き払った、老人らしい声音である。
 栄三郎は、ふたたび愕然《がくぜん》とした。
 自分と左膳とのあいだの乾坤二刀の争奪……誰も知る者のないはずなのに、この、突如としてあらわれた異装の一隊は、そのいきさつを委細《いさい》承知《しょうち》してわれからこの場へ踏みこんできたらしい口ぶりだ。
 何者かはわからぬが、容易ならぬ一団!
 ことに、いま栄三郎と立ち合っている恰幅《かっぷく》のいい侍はその首領とみえて、剣手体置きすべてが世のつねの盗人とは思われ
前へ 次へ
全76ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング