ぬ嫉妬の雲がむらむらとこみあげてきて、急に眼のまえが暗くなるのを覚えた。
 しかし、弥生は無言だった。
 この家にはいって以来、彼女はお艶の顔に眼を離さずに、低頭《じぎ》はおろか口ひとつきかないですわっているのだ。
 ものをいうのもけがらわしい!
 と強く自らを叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》している弥生は、それでも、これがあの栄三郎のおすまいかと思うと、今にも眼がしらが熱くなってきそうで、そこらにある乏《とぼ》しい世帯道具の一つ一つまでが、まるで久しく取り出さずに忘れている自分の物のように懐しまれてならなかった。
 けれど、面前《まえ》にいるこの女?
 栄三郎様の妻と自身で名乗っている。
 ああ……これが話に聞いた当り矢のお艶か。でも、妻だなどとはとんでもない!
 いいえ! いいえ! 妻で――妻であろうはずはありません! 決してありません!
 と胸に絶叫して、凝然《ぎょうぜん》とお艶を見つめた弥生は、ふとなんのつもりで自分はこの雨のなかをこんなところへ乗りこんできたのだろうか? とその動機がわからなくなると同時に、じぶんの立場がこの上なくみじめなものに見えてきて、猛《たけ》りたった心が急に折れるのを感じたかと思うと、はやぽうっと眼界をくもらす涙とともに噛《か》みしめた歯の間からゆえ知らぬ泣き声が洩れて出た。
 文《ふみ》つぶてにひかれて土屋多門の屋敷を出た弥生は、待っていた櫛まきお藤につれられて、雨にぬかるむ路をここまで来たのである。
「まあまあ! なんておいたわしい。ほんとにお察し申しますよ」
 こう言ってお藤は、なんのゆかりもないものだが、あまりに報われない弥生の悲恋をわがことのように思いなして、頼まれもしないのにお艶、栄三郎の隠れ家へ案内をする気になったのだと、弁解《いいわけ》のように途々《みちみち》話した。そして、
「じつはねえお嬢さま、あたくしもちょうどあなた様と同じように、いくら思っても情《つれ》なくされる殿御《とのご》がありますのさ」
 と、左膳を思いうかべながら、この娘! この娘! この娘なんだ! どうしてくれようとちらと横眼で見ると恋と妬心《としん》に先を急ぐ弥生は、同伴《つれ》のお藤が何者であろうといっさい頓着《とんじゃく》ないもののように、折りからの吹き降りにほつれ毛を濡らしきって口を結んでいたのだった。

 宵から降りだした雨をついて、その夜鈴川の屋敷には、いつものばくちの連中が集まり、更けるまではずんだ声で勝負を争っていたが、それもいつしかこわれて、寄り合っていた悪旗本や御家人《ごけにん》くずれの常連《じょうれん》が、母屋で、枕を並べて寝についたその寝入りばなを、逆に扱《こ》くように降ってわいた斬りこみであった。
 その夜は二十人あまりの仲間が鈴川方に泊まって、なかの二人が、左膳とともに離庵《はなれ》に寝ていたのだが、これらは栄三郎が踏みこむと同時に前後して武蔵太郎の犠牲にのぼって、声を聞きつけたおもやの源十郎、仙之助、与吉らほか十四人が雨戸を排《はい》して戸外をのぞいた時は、真夜中の雨は庭一面を包み、植えこみをとおして離庵のほうからただならぬ気配が漂《ただよ》ってきた。
 口々に呼んでも左膳の答はない。
 のみならず、つい先刻まで濡れた闇黒に丸窓を浮き出させていた離室の灯が消えている。
 変事《へんじ》出来《しゅったい》!
 と、とっさに感じとると同時に、ただちに源十郎指揮をくだして、一同|寝巻《ねまき》の裾をからげ、おのおの大刀をぶちこんで密《そっ》と庭におり立った。
 雨中を、数手にわかれて庵室をさして進む。
 ピシャピシャピシャというその跫音《あしおと》が、おのずから衿《えり》もとに冷気を呼んで、降りそそぐ雨に周囲の闇黒は重かった。
 この多勢の人影を、かれらが母屋を離れる時から見さだめていた泰軒は、一声なかの栄三郎を励ましておいて、つと地に這うように駈けるが早いか、母屋からの小径に当たる石|燈籠《どうろう》のかげに隠れて先頭《せんとう》を待った。
 庭とはいえ、化物屋敷の名にそむかず、荒れはてた草むらつづきである。
 さきに立った土生《はぶ》仙之助が、抜刀を雨にかばいながら濡れ草を分けて、
「起きて来たのはいいが、泰山《たいざん》鳴動《めいどう》して鼠《ねずみ》一匹じゃあねえかな……よく降りゃあがる」
 独語《ひとりご》ちつつその前にさしかかった時だった。
 パッと横ざまに飛び出した泰軒の丸太ん棒、
「やッ! 出たぞ!」
 と愕《おどろ》きあわてた仙之助の身体はそのまま草に投げ出されて、あとに続く人々の眼にうつったのは、仙之助のかわりにそこに立ちはだかっている異形《いぎょう》ともいうべき乞食《こじき》の姿だった。
 そしてその手には、いますばやく仙之助から奪いとった抜《ぬ》き身《み》の一刀がかざされているのだ。
「うむ! こいつだツ!」
「それ! 一時にかかってたたっ斬ってしまえ!」
 源十郎をはじめ大声に叫びかわして、雨滴に光る殺剣《さつけん》の陣がぐるりと泰軒をとりまく。
 が、豪快《ごうかい》蒲生泰軒、深くみずからの剣技にたのむところあるもののごとく、地を蹴って寄り立った石燈籠を小楯《こたて》に、自源流中青眼――静中物化を観るといった自若《じじゃく》たる態《てい》。
 薩州島津家の刀家|瀬戸口備前守《せとぐちびぜんのかみ》精妙の剣を体得したのち伊王《いおう》の滝において自源坊《じげんぼう》に逢い、その流旨《りゅうし》の悟りを開いたと伝えられているのがこの自源《じげん》流だ。
 泰軒先生、自源流にかけてはひそかに海内無二《かいだいむに》をもって自任していた。
 いまその気魄《きはく》、その剣位《けんい》に押されて、遠巻きの一同、すこしくひるむを見て、
「ごめん! 拙者がお相手つかまつるッ!」
 と躍り出た源十郎、去水《きょすい》流居合ぬきの飛閃、サッ! と雨を裂いて走ったと見るや! 時を移さず跳びはずして、逆に、円陣の一部をつきくずした泰軒の尖刀が即座に色づいて、泰軒先生、今は余儀《よぎ》なく真近《まぢか》のひとりを血祭りにあげた。
 雑草の根を掻きむしって悶絶するうめき声。
 とともに、四、五の白刃、きそい立って泰軒に迫ったが、たちまち雨の暗中にひときわ黒い飛沫《しぶき》がとんだかと思うと、はや一人ふたり、あるいは土に膝をついて刀にすがり、あるいは肩をおさえて起ちも得ない。
 迅来《じんらい》する泰軒。
 その疾駆し去ったあとには、負傷《てお》いの者、断末魔《だんまつま》の声が入りみだれて残る。こうして庭じゅうをせましと荒れくるう泰軒が、突然、捜し求めていた源十郎とガッ! と一合、刃をあわせる刹那、絶えず気になっていた離庵の中から、たしかに斬った斬られたに相違ない血なまぐさい叫びが一声、筒《つつ》抜けに聞こえてきた。
 と、まもなく生き血に彩られて、光を失った刀をさげて、黒い影がひとつ。ころがるように庵を出てくるのが見える。
 剣を持っているその手! それは右腕か左腕か?
 右ならば栄三郎、左腕なら左膳だが……。
 と、思わず泰軒が眼をとられた瞬間!
「えいッ!」
 と炸破《さくは》した気合いといっしょに、源十郎の長剣、突風をまきおこして泰軒に墜下《ついか》した。

 胸に邪計をいだく櫛まきお藤。
 じぶんの恋する左膳が思いをかけている弥生という娘。これがまた左膳の仇敵《かたき》諏訪栄三郎を死ぬほどこがれている――つまり弥生と、先夜源十郎方から逃がしてやったお艶とは激しい恋がたきだと知るや、お藤はここに弥生を突ついて、その心をひたむきに栄三郎へ向けて左膳に一泡ふかせてやろうとたくらんだのだ。
 それには、文つぶての思いつき。
 恋と嫉妬《しっと》は同じこころのうら表だ。離るべくもない。
 しかも、以前から人知れず強い憎悪《にくしみ》の矢を放って、お艶という女を呪いつづけてきた弥生のことである。このお藤の傀儡《かいらい》に使われるとは、もとより気づこうはずがない。一も二もなくお藤の投げた綱に手繰《たぐ》りよせられて、送り狼と相々傘《あいあいがさ》、夢みるような心もちのうちにこの瓦町の家へ届けられてきたのだが……。
 さてこうしてお艶、栄三郎の暮しを目《ま》のあたりに見て、現にお艶と向かいあいながら、さて、その憎い女の口から主人の栄三郎は――などといわれてみると、根が武家そだちの一本気な弥生だけに、世の中を知らぬ強さがすぐこの場合弱さに変わって、はかなさ情けなさが胸へつきあげてきた弥生はただもう泣くよりほかはなかった。
 弥生は泣いた。さめざめと泣いた。
 が、うつ伏せに折れるでもなければ、手や袂《たもと》で泣き顔をおおうでもない。
 両手を膝に重ねて、粛然《しゅくぜん》と端坐してお艶に対したまま、弥生は顔中を涙に濡らして嗚咽《おえつ》しているのだ。
 その泣き声が、傘をすぼめて戸外の露地に立ち聞くお藤の耳にはいると、櫛まきお藤、細い眉を八の字によせていまいましそうに舌打ちをした。
「チェッ! なんだろう、まあだらしのない! 自分の男をとった女と向きあってメソメソ泣くやつもないもんだ。お嬢さまなんてみんなああ気が弱いのかしら――じれったいねえ! 嫌になっちゃうよほんとに」
 こうつぶやいてなおも戸口に耳をつけると、雨の音に増して、弥生の泣き声がだんだん高くなる。
 まことに弥生は、やぶれ行燈《あんどん》に顔をそむけようともせず、流れる涙をそのままお艶へ見せて、オホッ! オホッ! と咳入るように泣いているのだが、それをお艶は、はじめはふしぎなものに思って、あっけにとられて眺めていた。
 美しくやつれた白い顔が、クシャクシャと引きつるように真ん中へよったかと思うと、口がゆがみ、小鼻のあたりが盛り上がってきて、無数の皺《しわ》の集まった両の眼から、押し出されるように涙の粒が……あとから後からと光って落ちて、青い筋の浮いている手の甲や、膝を包む友禅をしとどに濡らす。
 その顔をまっすぐにあげた弥生、いまは恥も外聞《がいぶん》も気位もなく、噛みしめた歯ももう泣き声を押し戻すことはできずよよとばかりに、声をたてて慟哭《どうこく》している――からだはすこしも動かさずに。
 しかし、骨をあらわした壁に、弥生の影が大きくぼやけて、その肩の辺が細かくふるえて見えるのは、あながち油のたりない裸燈心《はだかとうしん》のためばかりではなかったろう……弥生はいながらに身を涙の河に投じて、澎湃《ほうはい》とよせてくる己《おの》が情感に流されるままに、何かしらそこに甘《あま》い満足を喫《きっ》しているふうだった。
 おさむらいの娘というものは、こうも手放しで泣くのか――と頭の隅であきれながら、ただまじまじと弥生の涙を見つめていたお艶も、女の涙のわかるのは女である。そのうちに一度、この場にいない栄三郎のことが胸中に閃《ひらめ》くと、自分の思いに照らしあわせて弥生のこころがひしとうってくるのを感じて、いつしかお艶も眼のふちをうるませていた。
 それは、互いに一人の男を通して、やがてひとつに溶け合おうとする淡い入悟《にゅうご》の心もちであった。がそれまでに円くなるには、まだまだ二つの魂が擦れあい打ちあって角々をおとさねばならぬ……よしそのために火を発して、自他ともに焼き滅ぼすことがあろうとも。
 長い沈黙である。
 と、この時、弥生の泣き声のなかに言葉らしきものが混じっているのに気がついて、お艶は、
「は? なんでございます――?」
 ときき返したつもりだったが、じぶんでも驚いたのは、お艶の口を出たのがやはり泣き声のほか何ものでもなかった。
 いまにつかみあいではじまるだろうと、おもてに聞いていたお藤、
「おやおや! 嫌にしめっぽくなっちゃったねえ。お葬式じゃああるまいし……なんだい! ふたりで泣いてやがらあ!」
 と当てのはずれた腹立ちまぎれにトンと一つ黒襟《くろえり》を突きあげて、相手なしの見得を切ったが。
 ちょうどそのころ、本所鈴川の屋敷では――。

 闇黒に冷えゆく屍骸《しが
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