わかった。
で……。
泰軒と栄三郎、この二、三日こっそりと談合《だんごう》をすすめていたが、お艶に知らせればむだな心配をかけるばかりだと、先刻雨の中をぶらりと銭湯に出ていった栄三郎は、じつはいまごろは泰軒としめし合わせて本所の鈴川の屋敷へ斬りこんでいる時分なのだ!
そうとは知らないお艶、ぬれ手拭をさげた栄三郎をこころ待ちに、貧しいなかにも黙って出して喜ばせようと、しきりに口のかけた銚子《ちょうし》の燗《かん》ぐあいを気にしていると――。
突如《とつじょ》、はでな色彩《いろどり》が格子さきにひらめいたかと思うと、山の手のお姫様ふうの若いひとが、吹きこむ雨とともに髪を振り乱して三尺の土間《どま》に立った。
どうん! と一つ、戸外《そと》から雨戸を蹴るのが手はじめ。
栄三郎と泰軒が、同時に左右に別れてその戸の両側に身をかくす。
とも知らない庵内の男、夢中でごそごそ起き出たらしく、やがてめんどうくさそうに戸をあけて、
「ちえッ! 誰だ、今戸にぶつかったのは? 用があるなら声をかけろ」
と、みなまでいわせず、刹那《せつな》、鞘をあとに躍《おど》った武蔵太郎が、銀光一過、うわあッ! と魂切《たまぎ》る断末魔《だんまつま》の悲鳴を名残りに、胴下からはすかいに撥《は》ねあげられたくだんの男、がっくりと低頭《おじぎ》のようなしぐさとともに、もう戸の隙から転び落ちて、雨に濡れる庭土を掻いてのたうちまわる。
生きている血がカッ! と火の子のように熱《あつ》く栄三郎の足に飛び散る。
だが! たやすく刃にかかったところを見ても、斬られたのは左膳ではなかった。現《げん》に男は二本の腕で、飛び石を噛み抱いている。
とすると、
庵のなかには、めざす丹下左膳がまだ沈潜《ちんせん》しているに相違ないがカタリとも物音一つしないのは、寝てか覚《さ》めてか……泰軒と栄三郎期せずして呼吸《いき》をのんだ。
夜の氷雨《ひさめ》がシトシトと闇黒を溶かして注いでいる。樹々の葉が白く光って、降り溜まった水の重みに耐えかねて、つと傾くと、ポツリと下の草を打つ滴《しずく》の音が聞こえるようだ。松の針のさきに一つ一つ水玉がついているのが、戸の洩れ灯をうけて夜眼《よめ》にもいちじるしい。
しみじみと骨を刺す三|更《こう》の悲雨《ひう》。
本所化物屋敷の草庵に斬りこみをかけた二人は、一枚あいた板戸の左右にひそんで、じっと耳をすまして家内をうかがった。
お艶の口から、ここに乾雲丸の丹下左膳が潜伏していることを知り、お艶にはないしょで、今夜不意討ちに乗りこんだ諏訪栄三郎と蒲生泰軒である、来る途中で、獲物代りに道ばたの棒杭《ぼうぐい》を抜いた泰軒、栄三郎にささやいて手はずを決めた。
「あんたは専念《せんねん》丹下にかかるがよい。お艶さんの話によると、たえず四、五人から十人の無頼物《ならずもの》が屋敷に寝泊りしておるそうだが、じゃまが入れば何人でもわしが引き受けるから」
というたのもしい泰軒の言葉に、こんどこそはいかにもして夜泣きの片割れ乾雲丸を手に入れねばならぬと、栄三郎は強い決意を眉宇《びう》に示して、ひそかに武蔵太郎を撫《ぶ》しつつ夜盗《やとう》のごとく鈴川の邸内へ忍びこんだのだった。
深夜。暗さは暗し、折りからの雨。寝こみをおそうにはもってこいの晩である。小声にいましめあって離室《はなれ》に迫った泰軒と栄三郎は、戸をあけたひとりは栄三郎が、抜き討ちに斬って捨てたもののそれは名もない小|博奕《ばくち》うちの御家悪《ごけあく》ででもあるらしく、なかには、当の左膳をはじめ何人あぶれ者が雑魚寝《ざこね》をしているかわからないから、両人といえどもうかつには踏みこめない。
今の物音は源十郎達のいる母屋《おもや》には聞こえなかったらしいが、はなれの連中が気をつめ、いきを凝《こ》らしていることはたしかだ。が、そとに寄りそっている栄三郎泰軒の耳には、雨の滴底に夜の歩調が通うばかりで……、いつまで待ってもうんともすんとも反応がない。
と、思っていると、
雨戸のなかに、コソ! と人の動くけはいがして、同時にふっと枕あんどんを吹き消した。
踏みこまねば際限《きり》がない! と気負《きお》いたった栄三郎が、泰軒にあとを頼んで戸のあいだに身を入れた間《かん》一|髪《ぱつ》! 内側に待っていた氷剣、宙を切って栄三郎の肩口へ! と見えた瞬間《しゅんかん》、武蔵太郎の大鍔《おおつば》南蛮鉄、ガッ! と下から噛み返して、強打した金物のにおいが一|抹《まつ》の闘気を呼んで鼻をかすめる。とたんに! 伸びきった栄三郎の片手なぐり、神変夢想流でいう如意《にょい》の剣鋩《けんぼう》に見事血花が咲いて、またもやひとり、高股をおさえて鷺跳《さぎと》びのまま※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《ど》ッ! と得|耐《た》えず縁に崩れる。
かぶさってくるその傷負《てお》いを蹴ほどいて、一歩敷居に足をかけ、栄三郎、血のしたたる剛刀をやみに青眼……無言の気合いを腹底からふるいおこして。
静寂不動《せいじゃくふどう》。
たちまち、暗がりに慣れた栄三郎の眼に、部屋の中央に端坐《たんざ》して一刀をひきつけている人影がおぼろに浮かんできた。
「坤竜か。この雨に、よく来たなあ! 先夜は失礼した――」
低迷する左膳の声――とともにこの時母家のほうに当たって戸のあく音がして、鈴川源十郎のがなりたてるのが聞こえた。
「なんだッ! 丹下ッ! 何事がおきたのかッ!」
真十五枚|甲伏《かぶとぶせ》の法を作り出して新刀の鍛練《たんれん》に一家をなした大村|加卜《かぼく》。
かぶと伏せは俗に丸鍛《まるぎた》えともいい、出来上がり青味を帯びて烈《はげ》しい業物《わざもの》であるという。もと鎌倉藤源次助真が自得《じとく》したきりで伝わらなかったのを、加卜これを完成し、世の太刀は死に物なり甲伏は活太刀《かったち》なりと説破して一代に打つところ僅かに百振りを出なかった。
武蔵太郎安国は、この大村加卜の門人である。
いまこの、武蔵太郎つくるところの一刀をピッタリ青眼につけた諏訪栄三郎、闇黒に沈む庵内に眼をこらして、長駆してくるはずの乾雲丸にそなえていると。
別棟《べつむね》の母家のほうがざわめき渡って、鈴川源十郎、土生仙之助、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉、その他十四、五人の声々が叫びかわしているようす。
今にも庭へ流れ出てくれば、闇中の乱刃に泰軒ひとりでは心もとない……とふと栄三郎の心が戸外へむくと、うしろの戸口に!
「栄三郎殿ッ! ここは拙者が引き受けたぞ。こころおきなく丹下をしとめられい!」
との凜《りん》たる泰軒の声に、栄三郎は決然として後顧《こうこ》のうれいを絶ったが、しとめられい! と聞いて、にっとくらがりに歯を見せて笑ったのは、まだ膝をそろえてすわっている丹下左膳だった。
「ここへ斬りこんでくるとは、てめえもいよいよ死期が近えな」
と剣妖左膳、ガチリと鍔が鳴ったのは、乾雲の柄を握った片手に力がこもったのであろう。同時に、
「では、そろそろ参るとしようかッ」
と、おめきざま、紫電《しでん》低く走って栄三郎の膝へきた。跳びのいた栄三郎、横に流れた乾雲がバリバリッ! と音をたてて、障子の桟《さん》を斬り破ったと見るや、長光を宙になびかせて左膳の頭上に突進した。
が、さいたのは敷蒲団と畳の一部。
その瞬間に、いながらにして跳ね返った左膳は、煙草盆《たばこぼん》を蹴倒しながら後ろの壁にすり立って濛々《もうもう》たる灰神楽《はいかぐら》のなかに左腕の乾雲を振りかぶった左膳の姿が生き不動のように見えた。
「野郎《やろう》ッ! さあ、その細首をすっ飛ばしてくれるぞッ!」
大喝《たいかつ》した左膳の言葉は剣裡《けんり》に消えた。息をもつがせず肉迫した栄三郎が、足の踏みきりもあざやかに跳舞して上下左右にヒタヒタッ! とつけ入ってくるからだ。剣に死んでこそ剣に生きる。もう生死を超脱《ちょうだつ》している栄三郎にとっては、左膳も、左膳の剣も、ふだん道場に竹刀をとりあう稽古台《けいこだい》の朋輩《ほうばい》と変わりなかった。身を捨てて浮かぶ瀬を求めようと、防禦の構えはあけっぱなしに、まるで薪でも割ろうとする人のようにスタスタと寄って来てはサッ! と打ちこむ。法を無視しておのずから法にかなった凄い太刀風であった。
これが、平素から弄剣《ろうけん》に堕す気味のある左膳の胆心《たんしん》を、いささか寒からしめたとみえて、さすがの左膳、いまはすこしく受身の形で、ひたすら庭へとびおりて源十郎と勢いの合する機を狙うもののごとく、しきりに雨の吹きこむ戸ぐちをうかがつているが、早くもこれを察知した栄三郎が、はげしく刃をあわせながらも、体をもって戸外の道をふさぐことだけは忘れずにいるから、左膳思わず焦《いら》立ち逆上《あが》った。
「コ、コイッ! うるせえ真似《まね》をしやあがる!」とにわかに攻勢に出てその時|諸手《もろて》がけに突いてきた栄三郎をツイとはずすが早いか、乾雲丸の皎閃《こうせん》、刹那に虹をえがいて栄三郎のうえへくだった。
はじきとめた武蔵太郎が、鉄と鉄のきしみを伝えて、柄の栄三郎の手がかすかにしびれる。とたんに一歩さがった彼は、不覚《ふかく》にも敷居ぎわの死体につまずいて仰向《あおむ》けに倒れた。
と見た左膳、腸をつく鋭い気合いとともにすかさず追いすがって二の太刀を……。
闇黒ながらに相手が見えるふたり。
火花を散らす剣気が心眼に映じて昼のようだ。
斬りさげる左膳。
はねあげる栄三郎。
あいだに! ウワアッと! 喚発《かんぱつ》した悲叫は、左膳か、それとも栄三郎か?
本所鈴川の化物屋敷が刀影下に没して、冷雨のなかを白刃|相搏《あいう》つ血戦の場と化しさったころ。
ここ瓦町の露地《ろじ》の奥、諏訪栄三郎の留守宅にも、それにおとらない、凄じいひとつの争闘が開始されていた。
男子のたたかいは剣と腕《かいな》。
だが、女子のあらそいに用いられる武器は、ゆがんだ微笑と光る涙と、針を包んだことば……そうして、火の河のようにその底を流れる二つの激しい感情とであった。
たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。
それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の侘住居《わびずまい》に、欠け摺鉢《すりばち》に灰を入れた火鉢をへだてて向かいあっているのだ。
お艶《つや》と弥生《やよい》。
だまったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決まっているかのように双方ゆずろうともしない――視線合戦《しせんがっせん》。
が、さすがにお艶は、水茶屋をあつかってきただけに弥生よりは世《よ》慣れていた。お艶は、さっきから何度もしているように、丁寧《ていねい》に頭をさげると、ほどよく微笑をほころばせながら、それでも充分の棘《とげ》を含んで同じ言葉をくり返した。「あの、それでは、あなたさまが弥生様でいらっしゃいますか。おはつにお目にかかります。お噂《うわさ》はしじゅう良人《たく》から伺っておりますが……わたくしは栄三郎の妻のお艶《つや》と申すふつつか者でございます。どうぞよろしく……ほほほほ、主人はちょっとただいまお風呂《ふろ》へ参りまして、でも、もうお湯をおとした時分でございますから、おッつけ帰るだろうとは存じますが、どこかへまわりましたのかも知れませんでございますよ。まあ、ごゆっくり遊ばして」
と、栄三郎の妻という句に力を入れて、これだけいうのがお艶には一生懸命だった。茶屋女上がりと馬鹿にされまい。まともな挨拶もできないとあっては、じぶんよりも栄三郎様のお顔にかかわる。こう引き締まったお艶のこころに、まあなんといっても、いま栄三郎の心身をひとりじめにしているのはこのわたしだという勝ちほこった気が手伝って、お艶にこれだけスラスラと初対面の口上《こうじょう》を言わせたのだったが、そのあとで、
「良人がいろいろと御厄介になりましたそうで……」
と口にしかけたお艶は、突如、いい知れ
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