雲だなッ」
「や! 貴様は坤竜! うめえところで会ったな」
つるぎにかけては狷介不覊《けんかいふき》な左膳、覆面の底で、しんから嬉しそうににたりとする。
辻斬りの相手を求めて、乾雲丸の指し示すがままに道をこのほうへとってきたのだったが、初太刀をはずされた当の獲物が坤竜丸とわかってみれば!
もう何も言うことはない。
七つ刻《どき》。はるかの田の面に低い三日月の薄光を乱して、二つの影がパッ! と一本みちの左右へ。
呼吸を測って押しあった二人、離れた時は真剣のはずみでとっさに四、五間のへだたりがあった。
ここで栄三郎は、かぶっていた編み笠を路傍へ捨てて、しずかに愛刀武蔵太郎安国の鞘をはらう。
濡れ手拭をしぼるように、やんわりと持った柄の手ざわりにも、今宵《こよい》こそ! と思う強い闘志をそそられて、栄三郎の平青眼はおのずと固《かた》かった。
と、うしろに。
「やわらかに」
という声がする。ふしぎ! 誰? と振りむこうにも、前方には左膳の隻腕一文字に伸びてツツ……と迫ってくるのだ。乾雲の鋩子《ぼうし》先を一点の白光と見せて。
「汝《うぬ》をどんなに探したことか――ふふふ、運の尽きだ! いくぜ、おいッ」
蒼白の麗顔に汗をにじませて、栄三郎は無言。
小ゆるぎもせずに大刀を片手につけた左膳、右に開いた身体にあかつきの微風を受けて、うしろの右足がツウッ! と前の左足のかかとにかかったと見るや、棒立ちの構えから瞬間背を低めて、またもやひだり足の爪さきに地をきざませて這い寄る。それから再びソロソロと右足が……こうして道路を斜めに栄三郎をつめながら、覆面のかげから隻眼が笑う……どうでえ、青二才! あんまりいい気もちはしめえが! というように。
押されるともなく、追われるでもなく、いつしか片側の松の幹までさがった栄三郎、思わずはっとして気をしめた。
「若殿様! 栄三郎さまッ! お艶が参っております! どうぞしっかりあそばして」
近いところからこの声が。
もとより心の迷い、いたずらなから耳――と思った栄三郎だったが、これがかれを渾身《こんしん》からふるいたたせて、つぎの刹那《せつな》、うなりを生じた武蔵太郎安国、左膳の前額を望んで奔駆《ほんく》していた。
が、余人ではない。左膳だ。
払うどころか、躍動する刀影を眼前に、さッと乾雲の手もとがおのが胴へ引いたと見るや、上身をそらせて栄三郎の鋭鋒を避けながら、右下からはすに、乾雲、鍔《つば》まで栄三郎を串刺《くしざ》しに。
と見えたが……。
虚を斬りさげた武蔵太郎の柄におさえられて、乾雲のさきにいささかの血が走ったのは、余勢、栄三郎の手の甲をかすったのだ。
「うぬッ!」
と歯を噛《か》む音が左膳の口を洩れる。そこを! 体押しにかかった栄三郎、満身の力をこめて突き離そうとしたが、磐石《ばんじゃく》の左膳、大地に根が生えたように動かない。
両方からひしッ! と合して、人の字形に静止――つばぜりあいだ。
近ぢかと寄った乾雲坤竜。
吐く息がもつれて敵意の炎と燃えあがるのを、並木のかげから二つの顔がのぞいていた。
雨をはらんだ夜空は低かった。
窓の下の縞笹《しまざさ》にバラバラと夜露のこぼれるのが、気のせいか雨の音のように聞こえる。
屋敷町の宵の口はかえって、深更《しんこう》よりものしずかで、いずれよからぬ場所へ通う勤番者《きんばんもの》のやからであろう、酔った田舎《いなか》言葉が声高におもて通りを過ぎて行ったあとは、また寂然《ひっそり》とした夜気があたりを占めて、水を含んだ風がサッと吹きこんでは弥生の枕もとをつめたくなでる。
弥生は、掻巻《かいまき》の襟を噛むようにしてはげしく咳《せき》入った。
麹《こうじ》町三番町――土屋多門の屋敷の一間。
肺の病に臥す弥生の部屋である。
このごろ人を厭《いと》うて看病《みとり》の者さえあまり近づけない弥生……若い乙女の病室とも思われなく寒々しくとり乱れて、さっき女中が運んで来た夕餉《ゆうげ》の膳にさえまだ箸がつけてない。
床の中で眼をつぶった弥生が、またしても思うのは――あの諏訪栄三郎さまのこと。
栄三郎様は、浅草三社まえとかの女と懇《ねんごろ》になさっている。と、それとなく言って叔父多門の口から、手繰《たぐ》りだすようにすべてを知った弥生だったが、それですこしは諦めるかと思った多門の心を裏切って、弥生の愛欲思炎《あいよくしえん》は高まる一方――かてて加えて病勢とみに進んで、朝夕の体熱《ねつ》に浮かされるように口走るのが、やはり栄三郎の名――それは、恋と病に娘ざかりの身を削《そ》がれてゆく、あさましいまでに痩せ細った弥生のすがたであった。
日々これを眼にする多門の苦しみも大きかったが、そのなかにも一つの悦《よろこ》びといっていいのは、さしも一時は危ないとまでに思われた胸のやまいが、このごろではどうやら持ちなおして、心の持ちようと養生一つでは、肺の悩みも決して不治《ふじ》ではない。不治どころかなおし方さえ知ってみれば、とんとん拍子に快《よ》くなるばかり……という強い信念を、当《とう》の弥生をはじめ多門も持ち得るようになったことだ。
ところが、こうして病気が快方に向かうにつれて、栄三郎に対する弥生の思いは募りにつのって、それも当初の生一本の娘ごころの恋情とは違って、あいだにお艶というものがあるだけに、いっそう悪強い、人の世の裏をいく執拗《しつよう》な妬婦《とふ》の胸中に変わろうとしていた。
恋の競《せ》り合《あ》い――あまりにも露骨《むきだし》な、われとわがこころの愛憎に驚きながらも、弥生は日夜そのお艶とやらを魔神にかけて呪《のろ》わずにはいられなかったのだ……。
よくなりつつあるとはいえ、まだ床は出られない。
今宵《こよい》も弥生が、おのが友禅《ゆうぜん》を着せた行燈の灯影に、寝つかれぬままに枕に頬をすって、思うともなく眼にうかぶ栄三郎の姿を追い、同時に、翻《ひるがえ》ってまだ見ぬお艶とやらへ恨みの繰《く》り言《ごと》をひとり口の中につぶやいていると……。
音もなく流れこむしめっぽい夜風。
とたんに、またひとしきり咳《せ》いた弥生は、
「おや! 窓をしめ忘れて……」
と独語《ひとりご》ちながら、わざわざ人を呼ぶほどのこともないと、静かに夜着をはねて起きあがったが。
そのときだった。
今にも降り出しそうな戸外《そと》の闇黒から、何やら白い礫《つぶて》のような物が、窓の桟《さん》のあいだを飛んできて畳を打った。
ふしぎそうに首を傾けた弥生、こわごわ拾いあげてみると、紙片で小石を包んで捻《ひね》ってある――文《ふみ》つぶて。
なんだろう? と思うより早く、弥生がいそいで開くと、小石が一つ足もとにころげ落ちて、手に残ったのは巻紙のきれはし。
誰の字とも弥生はもとより知る由もないが、金釘流《かなくぎりゅう》の文字が野路《のじ》の時雨《しぐれ》のように斜めに倒れて走っている。
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失礼ながら一筆申しあげそろ。
お艶栄三郎どのがたのしく世帯《しょたい》を持って夫婦ぐらしのさまを見るにつけ、おん前さまがいじらしくてならず、いらぬこととは存じつつお知らせ申しそろ。その場へおいでのお心あらば、わたしがこれよりおつれ申すべく早々におしたくなされたくそろ――ごぞんじより。
[#ここで字下げ終わり]
はっとよろめいた弥生、窓につかまってさしのぞくと、御存じよりとはあるが、見たこともない女がひとり、いつのまにどうしてはいりこんだものか、小雨に煙る庭の立ち木の下に立って、白い顔に傘《かさ》をすぼめておいでおいでをしている。
憑《つ》かれたように立ちなおった弥生が、見るまに血相をかえて手早く帯を締《し》め出したとき、やにわに本降りに変わって、銀に光る太い雨脚《あまあし》が檐《のき》をたたいた。
世帯道具《しょたいどうぐ》――といったところで茶碗皿小鉢に箸《はし》が二組と、それにささやかな炊事《すいじ》の品々だが、その茶碗と箸も正直なところできることなら同じ一つですませたいぐらい。
何はなくとも、栄三郎とお艶にとっては、高殿玉楼《こうでんぎょくろう》にまさる裏店《うらだな》の住いだった。
家じゅうがらんとして……というと相応に広そうだが、あさくさ御門に近い瓦町《かわらまち》の露地の奥、そのまた奥の奥というややこしい九尺二間の棟割《むねわり》である。せまいなどというのを通りこして、まっすぐに寝れば足が戸口に食《は》み出るほどだったが――。
その、せまく汚ないのがおかしいといってお艶が笑えば栄三郎も微笑《ほほえ》む。笊《ざる》、味噌《みそ》こしの新しいのさえ、こころ嬉しくも恥ずかしい若いふたりの恋の巣であった。
お艶と栄三郎、思いが叶ってここに家をかまえたまではいいが、自分が逃げたためにもしやお母さんに疑いがかかって、本所の屋敷であの源十郎の殿様にいじめられていはせぬかと思うと、こうしていてもお艶は気が気でなかったとともに、それにつけて、思い出してもふしぎなのは、じぶんを逃がしてくれたお藤さんという女の振舞《ふるまい》とその言葉である。
栄三郎様と弥生さまとが……と聞いてむちゅうで駈け出したお艶が、泰軒とつれだって千住をさして急いだ途中。
あの小塚原のあけ方、左膳と栄三郎が刃を合わせた。
四分六といつか泰軒が評《ひょう》したことばのとおりに剣胆《けんたん》二つながらに備えてはいても、何しろ左膳ほど刀下をくぐっていない栄三郎、ともすれば受け太刀になって、しかも手の甲をさいた傷口から鮮血はとどまるべくもなく、下半身を伝わって、いたずらに往来の土にしみる。それでも、物陰からかけるエイッ! ヤッ! という泰軒の気合いにわれ知らず励《はげ》まされて、あれから五、六合はげしく渡りあっていたが、そのうちに! 誰ともなく加勢の声ありと聞きとった左膳は、長居《ながい》はめんどうと思ったものか、阿修羅《あしゅら》のごとき剣幕《けんまく》で近く後日の再会を約すとそのまま傾く月かげに追われて江戸の方へと走り去ったのだった。
お艶栄三郎、明けはなれてゆくうす紅《くれない》の空の下でひさしぶりに手をとりあった。
お艶が、手拭を食いさいて傷の手当をしながらきくと、なるほど泰軒のいうとおり、栄三郎は今まで千住竹の塚の乳兄弟《ちきょうだい》孫七方にころがりこんでいたものと知れて、お藤にふきこまれたお艶の疑念《ぎねん》はあとかたもなくはれわたったが、なんのためにあんな嘘をついたのかとそれを思い惑《まど》うよりも、お艶はただ、すぐと栄三郎と家を持つ楽しい相談に頬を赤らめるばかりだった。
「もうわしがおっては邪魔であろう。これ以上ここらにうろうろすれば憎まれるだけだ。犬に食われんうちに退散《たいさん》退散」
こう粋《すい》をきかして泰軒が立ち去ったのち、二人は、あれでどれほど長く玉姫神社の階段に腰をかけて語り合っていたものか――気がついた時は、陽はすでに斜《なな》めに昇って、朝露に色を増した青い物の荷車が、清々《すがすが》しい香とともに江戸の市場へと後からあとから千住《せんじゅ》街道につづいていた。
それからまもなく。
泰軒のいる首尾の松へも近いというところから、三人で探して借りたこの家であった。
たらぬがちの生活にも、朝な朝なのはたきの音、お艶の女房《にょうぼう》ぶりはういういしく、泰軒は毎日のように訪ねて来ては、その帰ったあとには必ず小粒《こつぶ》がすこし上がりぐちに落ちている。大岡様から与えられた金子をそれとなく用立てているものであろう。栄三郎は押しいただいて使っていたが、そのくせいつも顔が会っても、かれも泰軒もそれについては何一ついわない。殿方《とのがた》の交際《まじわり》はどうしてああさっぱりと行きとどいているのだろうと、お艶は涙のこぼれるほどうれしかった。
お艶のはなしによって。
丹下左膳が、母おさよの奉公先なる本所法恩寺まえの旗本鈴川源十郎方の離庵《はなれ》にひそんでいることが
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