闇黒に一声。
 馬鹿めッ
 と! もう姿は真夜《しんや》の霧に消えていた――。
「あのときだけはおれも汗をかいたよ」
 こう左膳が結ぶと、
「上には上があるものだな」
「へえい! だが、丹下さまより強いやつなんて、ねえ殿様、そいつあまあ天狗《てんぐ》でげしょう」
 などと仙之助と与吉、それぞれに追従《ついしょう》を忘れないが、源十郎は、ひとり杯のふちをなめながら中庭の足音をこころ待ちしている……気を入れかえたお艶が、いまにもあでやかな笑顔を見せるであろうと。
 赤っぽい光を乱して、四人の影が入りまじる。さかずきが飛ぶ。箸が伸びる。徳利の底をたたく――長夜の飲《いん》。言葉が切れると、夜の更ける音が耳をつき刺すようだ。
 左膳は、剣を抱いて横になる。
「お藤はどうした?」
「へえ。さっき帰りました」
「すこし手荒かったかな、ははははは」
 と左膳が虹のような酒気を吐いたとき、おさよの声が土間|口《ぐち》をのぞいた。
「殿様、ちょっとお顔を拝借《はいしゃく》……」
 起きあがった源十郎は、
「お艶が待っていると申すぞ。ひとりで眺めずにここへつれて参れ」
 という左膳の揶揄《やゆ》を背中に聞いておさよと並んで母屋のほうへ歩き出した。
 霜に凝《こ》ろうとする夜露に、庭下駄の緒《お》が重く湿《しめ》る。
 風に雨の香がしていた。
「殿様」
「なんだ」
「あの、お艶のことでございますが」
「うん。どうじゃな? 靡《なび》きそうか」
「はい。いろいろといい聞かせましたところが、一生おそばにおいてくださるなら――と申しております」
「そうか。御苦労《ごくろう》。いずれ後から貴様にも礼を取らせる」
「いいえ、そんな――けれど、殿様」
「なんだ?」
「あのう、わたくしはお艶の……」
 いいながらおさよが納戸《なんど》をあけると、一眼なかを見た源十郎、むずと老婆の手をつかんだ。
「やッ! 見ろッ! おらんではないかお艶はッ! あ! 縁《えん》があいとる! に、逃がしたな貴様ッ!」

 関の孫六の鍛刀乾雲丸。
 夜泣きの刀のいわれは、脇差坤竜丸と所をべつにすれば……かならず丑満《うしみつ》のころあいに迷雲、地中の竜を慕ってすすり哭《な》くとの伝奇《でんき》である。
 いまや山川草木《さんせんそうもく》の霊さえ眠る真夜なか。
 この、本所鈴川の屋敷の離室《はなれ》で。
 左膳は、またしてもその泣き声を聞いたのだった。
 妖剣乾雲、いかなる涙をもって左膳に話しかけたか――。
 おどろおどろとして何ごとかを陳弁《ちんべん》する老女のごとき声が、酔い痴《し》れた左膳の耳へ虫の羽音のようにひびいてくる。かれは、隻眼を吊《つ》り開けて膝元の乾雲を凝視した。
 おのが手の脂《あぶら》に光る赤銅の柄《つか》にむら雲の彫り、平糸を巻きしめた鞘……陣太刀乾雲丸は、鍔《つば》をまくらに、やぶれ畳にしっとりと刀姿を横たえて、はだか蝋燭《ろうそく》の赤いかげが細かくふるえている。

 剣精《けんせい》のうったえ。
 それが左膳にはっきり聞こえるのだ。
「血、血、血……人を斬ろう、人を斬ろう」
 というように。
 左膳はにっこりした。が、かれはふしぎな気がした。何故? いままでも左膳はよく深夜に刀の泣き声らしいものをきいたことがあるが、それはいつもきまって若い女のすすりなきだったけれど、今夜のはたしかに老婆の涕泣《ていきゅう》だからだ。
 その愁声《しゅうせい》が、地の底からうめくように断続して左膳の酔耳に伝わると、はっとした彼は、あたりをぬすみ見て乾雲丸を取りあげた。
 源十郎はおさよといっしょにさっき出て行ったきりである。飲食《のみくい》のあとが、ところ狭いまでに散らかったなかに仙之助と与吉はいつしか酔いつぶれて眠っていた。
 深々と更けわたる夜気。
 と、またもや鬼調《きちょう》を帯びた声が……乾雲丸の刀身から?
 左膳は一、二寸、左手に乾雲を抜いてみた。同時に、突き上げられたように起《た》ったかと思うと、彼はすでにその大刀を落とし差しに、足音を忍ばせて庵室の土間に降り立った。
 人は眠りこけている。見るものはない。それなのに左膳は、すばやく懐中を探って黒布を取り出し、片手で器用に顔を包んだ。音のしないように離室を出ると、酒に熱した体に闇黒《やみ》を吹く夜風が快よかった。こうして一個のほそ長い影と化した左膳、乾雲丸を横たえて植えこみづたいに屋敷をぬけてゆく。
 どこへ?
 江戸の辻々に行人を斬りに。
 なんのため?
 ただ斬るため。
 しかし、そのうち雲竜相応じ、刀の手引きで諏訪《すわ》栄三郎に会うであろうと、左膳は一心にそれを念じていたのだったが、いまは斬らんがために斬り、ひたすら殺さんがために殺す左膳であった。
 一|対《つい》におさまっていれば何事もないが、番《つがい》を離れたが最後、絶えず人血を欲してやまないのが奇刃《きじん》乾雲である。その剣心に魅《み》し去られて、左膳が刀を差すというよりも刀が左膳をさし、左膳が人を斬り殺すというよりも刀が人を斬り殺す辻斬りに、左膳はこうして毎夜の闇黒をさまよい歩いているのだったが、ちらと乾雲の刃を見ると、人を斬らずにはいられなくなる左膳、このごろでは彼は、夜|生温《なまぬる》い血しぶきを浴びることによってのみ、昼間はかろうじていささかの睡眠に神気を休め得るありさまだった。
 が、刀が哭《な》くと聞いたのは、左膳邪心の迷いで、いままでの若い女性の声は納戸のお艶《つや》、今夜の老婆の泣き声は、お艶の代りにそこにとじこめられたおさよの声であった。
 左膳の出て行ったあと。
 納戸では、源十郎がおさよを詰問《きつもん》している。
「どうも俺は、以前から変だとは思っていたが、これ! さよ! 貴様がお艶を逃亡させたに相違ない。いったい貴様はあの女の何なのだ? ううん? いずれ近い身寄りとはにらんでおるが、真直《まっす》ぐに申し立てろッ」
 籠の鳥に飛び去られた源十郎、与力の鈴源と言われるだけあって泣き伏すおさよの前にしゃがんでこうたたみかけた。
「伯母《おば》か、知合いか、なんだ?」
 おさよは弁解も尽きたらしく、もう強情に黙りこくっていると、源十郎は、
「いずれ身体にきいていわせてみせるが、お艶が俺の手に帰るまでは、貴様をここから出すことはならぬ」
 いい捨てて、先に懲《こ》りたものか、今度は板戸に錠をおろして立ち去って行った。きょうまで娘のいた部屋に、その母を幽閉して――。

   文つぶて

 どこか雲のうらに月があると見えて、灰色を帯びた銀の光が、降るともなく、夢のようにただよっている夜だった。
 もう明《あ》け方《がた》にまもあるまい。
 右手の玉姫《たまひめ》神社の方角が東にあたっているのだろう。はや白じらとした暁のいろが森のむこうにわき動いていた。
 人通りのない小塚原《こづかっぱら》の往還《おうかん》を、男女ふたりの影がならんでいそぐ――当り矢のお艶と蒲生泰軒。
 山谷《さんや》の堀はかなり前に渡った。けれど泰軒は足をとめるようすもなく、そしてじぶん達のまえには長いながい道路が夜眼に埃を舞わせて遠く細く走って、末はかすむように消えているのだ……千住《せんじゅ》の里へ。
 歩きなれないお艶は、じゃまになる裾まえをおさえながら、ともすれば遅れがちの足を早めて、われとわが身をいたわるような溜息《ためいき》といっしょに、泰軒へ追いついた。
「ねえ先生、どこまでゆくのでございましょうか。ずいぶん遠うございますねえ。ここはもう江戸ではございますまい?」
 泰軒の笑い顔が振り向いた。
「そうさ。江戸ではない。が、日本のうちだ。安心してついて来なさい。だいたい発足した時から、遠いがええかとわしは念を押したはずだ。夜みちをかけてかわいい男に会いにいこうというのに、そう気の弱いことではしようがないな、ははははは」
「でも――」とお艶はあえいだ。
「でも……なんじゃな?」
「でもね先生、後生ですからうちあけておっしゃってくださいましよ。あの、栄三郎様は、ほんとにその千住の竹の塚とやらにおいでになるのでございますか」
「行ってみりゃあわかる。一番の早道だ」
「そして――そして、おひとりで……?」
「さ、それもこれから寝こみを襲えばすぐわかろう」
 じらすように泰軒が言うと、お艶は情けなさそうにうつむいてかぶっている手拭《てぬぐい》のはしを前歯に噛んだ。
 罪だ……とは思うが、どうせ後から笑いばなしになることと、泰軒は微笑の顔を見せないように先に立つ。
 あとに続くお艶の心中は、嫉妬と不安とはかない喜びにかきむしられて、もつれもつれた麻糸の玉だった。
 櫛まきお藤に手をとられて、本所法恩寺橋まえの鈴川の屋敷をのがれ出てから。
 小一丁も来たかと思うころ、お艶はお藤を見失ってしまった。それはお藤としては、お艶の口から恋がたき弥生のいどころを知って、そのうえ源十郎への意趣晴らしにお艶をつれ出した以上は、もはやお艶は足手まといにすぎないと、そこでさっそく夜の町にまいてしまったのだが、弥生と栄三郎が家を持っている――と聞いただけで、なに町のどこに? ともまだお藤に質《ただ》さなかったお艶は、夜更けの街上にひとりですっかり途方にくれた。
 あの若殿さまにかぎって、まさか!
 と一度は強く打ち消してもみるが、夏の沖に立つ綿雲《わたぐも》の峰のように疑念が、あとからあとからと胸にひろがってはてはどうしても事実としか思えなくなったお艶、栄三郎と弥生を据え置いて面罵《めんば》し、二人を呪《のろ》い殺さなくてはならぬ……と狂乱に浪打つ激しいこころを抱いて、どこをどう歩きまわったものか、やがてわれに返って気がついてみると、吸われるように立ち寄っていたが、あの、思い出すさえ嬉し恥ずかしい首尾《しゅび》の松……。
 おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、暗《やみ》にも白い手が袖口にひらめいて。
 ポトン! ポトンポトン!
 苫《とま》をはぐって一艘の舟から現われた泰軒は、お艶のその後のとらわれの次第、場所、そしてそこに乾雲丸をもつ隻眼隻手の客丹下左膳がひそんでいることなどを話したのち、せきこんで栄三郎様は? とたずねると、泰軒は平然と、かれは田舎《いなか》にいるから二人この足で押しかけよう――こう言っていきなり歩き出したのだった。
 貧乏徳利をさげた乞食と服装《なり》ふりかまわぬ若い女……それは奇妙な道行きであった。
 で。
 さっきから無言に落ちて、あらぬ空想《おもい》に身をまかせていたお艶が、怒りと悲しみに思わず眼を上げて薄明のあたりを見まわすと、
「あれ! あれが仕置《しお》き場《ば》だ」という泰軒の声。
「まあ! こわい……」
「はははは、だから、急ぐとしよう」
 が、泰軒はぴたッと立ちどまって、うしろのお艶をかばうようにかまえた。
 田圃《たんぼ》にはさまれた杉|並木《なみき》。
 ほのかに白い道のむこうに、杉の幹にはりついて黒い影がある。
 と、お艶の忘れられない若々しい詩吟の声が、ゆく手の半暗をさいて流れて来た。
「日暮《にちぼ》、帰りて剣血《けんけつ》を看《み》る」
 坤竜丸、夜泣きの脇差の秘告《ひこく》であろうか。
 平巻きの鞘が先へさきへと腰を押すような気がして、ただじっとしていられなかった栄三郎が、明けから江戸の町をあるくつもりで千住街道を影とふたりづれで小塚原の刑場へまで来ると――。
 眼のすみを横切って、ちらと動いたものがある。それが、右に立ち並ぶ木の根を離れたかと思うと、タッタッ! と二足ばかり、うしろに迫る人の気配を感じて、栄三郎は振り返った。
 その時。
 長星。闇黒に飛来して、刃のにおいが鼻をかすめる。来たなッ! と知った栄三郎、とびさがれば斬尖《きっさき》にかかる――ままよ! とかえって踏みこんでいったのが、きっぱりと敵の体に当たって、栄三郎は何者とも知れない覆面の剣手をつかんでいた。
 それが、左腕の片手!
 刀は乾雲丸……きょうが日まで捜しあぐんでいた丹下左膳だ。
「これ! 乾
前へ 次へ
全76ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング