、一つしかない眼を憎悪に燃やして足もとのお藤をにらみすえた。
 細松の幹を思わせる、ひょろ高い筋骨、それに、着たきり雀《すずめ》の古|袷《あわせ》がはだけて、毎夜のやみを吸って生きる丹下左膳、さらぬだに地獄絵の青鬼そのままなところへ――左手に握った乾雲丸を鞘《さや》ぐるみふりあげるたびに空《から》の右袖がぶきみな踊りをおどる。
 せまい六畳の部屋。
 源十郎の父宇右衛門は、老後茶道でも楽しんで、こころしずかに余生を送るつもりで建てた離庵《はなれ》であろうが星移りもの変わるうちに、それがどうだ! 荒れはてて檐《のき》は傾き、草にうずもれて、しかも今は隻眼片腕の狂怪丹下左膳が、憤怒《ふんぬ》のしもとをふるって女身を鞭うつ責め苦の庭となっているのだ。
 くもり日の空は灰色。
 本所もこのへんは遠く家並みをはずれて、雲の切れ目から思い出したように陽が照るごとに、淡い光が横ざまにのぞいては、仁王立ちの左膳の裾とそれにからまるお藤を一矢|彩《いろど》ると見るまに、すぐまたかげってゆくばかりで、前の法恩寺橋を渡る人もないらしく、ひっそりとして陽《ひ》あしの早い七つどきだった……。
 夜具や身のまわりの物を片隅に蹴こんだ寒ざむしい室内。わずかにとった真ん中の空所《あき》に、投げつけられたような櫛まきお藤の姿がふてぶてしくうつぶしていた。
 ぐるりと四、五人男が取り巻いている。
 土生《はぶ》仙之助、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉《よきち》などの顔がそのなかに見られたが、みな血走った眼を凝《こ》らして左膳とお藤を交互に眺めているだけで言葉もない。
 たださえ痩せほうけた丹下左膳、それが近ごろの夜あるきで露を受け霜に枯れて、ひとしお凄烈《せいれつ》の風を増したのが、カッ! と開いた隻眼に残忍な笑いを宿したと思うと、
 またもや!
「おいッ! なんとか言えい! 畜生ッ、こ、これでもいわねえか! うぬ、これでも……ッ!」
 と、わめくより早く、乾雲の鞘尻|弧《こ》を切ってはっし! お藤の背を打ったが――。
 アッ! と歯を噛んで畳を抱いたきり――お藤は眠ったように動かない。
 水のような薄明の底にふだん自慢の櫛まきがねっとりと流れて着ている物のずっこけたあいだから、襟くび膝頭と脂《あぶら》ののりきった白い膚が、怪異な花のように散り咲いているぐあい、怖ろしさを通りこして、観《み》ようによっては艶《えん》な情景だったのだろう、両手を帯へ突っこんだ土生仙之助は、舌なめずりをしながらそうしたお藤の崩態《ほうたい》にあかず見入っていたが、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉は眼をそむけて……といってとりなす術《すべ》もなく、ただおろおろするばかりだった。
 この、毎日の責め折檻《せっかん》。
 それが、きょうも始まったところだ。
 なんのため!
 ほかでもない――あの首尾の松の下に乱闘の夜、左膳が栄三郎へ斬りつけた刹那に、櫛まきお藤がお艶をよそおって小舟へとんだため、栄三郎とあの乞食がすばやくつづいて舟を出してしまった。おかげでもう一歩というところであたら長蛇《ちょうだ》を逸《いっ》したのは、すべてお藤のしわざで、ひっこんでいさえすれば、見事若造を斬り棄てて坤竜丸を収め得たものを! さ、いったい全体だれに頼まれて、あんなところへお艶の身代りにとび出したのだ? はじめからあの場へ水を差して、こっちの手はずをぐれはま[#「ぐれはま」に傍点]にするつもりだったに相違ねえ。ふてえ女《あま》だ。なぶり殺しにしてくれる!
 と左膳はお藤を自室に幽閉して日々打つ殴る蹴るの呵責《かしゃく》を加えているのだが、お藤は源十郎のために、お艶をさらう便宜をはかったにすぎないことは、左膳にもよくわかっていたから、ただひとこと殿様に頼まれて……とお藤が洩らすのを証《あかし》に源十郎へ掛け合うつもりでいるものの、それをお藤は、頑固に口を結んでいっかないわぬ。
 がお藤にしてみれば。
 自分がこんな憂目《うきめ》を見ている以上、今にきっと源十郎が割って出て、万事をつくろってくれるものと信じているのだが、源十郎はお艶のことでいっぱいで、左膳へ橋渡しをすると誓ったお藤との約束はもちろん、いまのお藤のくるしみも見てみぬふり、聞いて聞かぬ顔ですぎてきたのだった。
 ほれた弱味――でもあるまいが江戸の姐御《あねご》だ。左膳を見あげたお藤が、ひとすじ血をひいた口もとをにっことほころばせると、一同顔が上がり端《ばた》へ向いた。
 庭へ開いた戸ぐちを人影がふさいでいる。

 例の女物の長襦袢をちらつかせた左膳、乾雲丸を引っさげてつかつかと進みながら、
「なんだ? 源十におさよじゃねえか。てめえたちに用のあるところじゃねえ! なにしに来た?」
 と立ち拡がったが、源十郎はにやり笑ってそっとおさよを突いた。
「さ、老役《ふけやく》には持ってこいだ。な、よろしく謝《あやま》ってやれ」
 ささやかれたおさよ、恐怖に気も顛倒《てんとう》して左膳の顔を見ないように、口のなかでごもごも言ってやつぎばやに頭をさげると、左膳は、「うるせえッ! 婆あの出る幕じゃねえッ」と一|喝《かつ》し去って、おさよを越えてうしろの源十郎へ皮肉にからんできた。
「鈴源! 貴様は昼も晩も納戸《なんど》の女にくッついてるんじゃねえのか。珍しいな出てくるとは――どうだ、あの女はお艶と言ったなあ、うまくいったか」
 あざけりつつ、そろりそろりと室内へ引き返す左膳を、源十郎は眼で追って、さもお艶との仲が上首尾らしく、色男ぶった薄わらいをつづけていると、
「おれの女はこれだッ!」
 と、左膳はやにわにお藤を蹴返して、
「こらッ、お藤! 誰のさしがねで刀のさまたげをしたか、それを吐《ぬ》かせ!」
 叫びざま左手に髪を巻きつけて引きずりまわす――が、この狂乱の丹下左膳に身もこころも投げかけているかのように、お藤は蒼白の顔に歯を食いしばって、されるがまま、もう声を立てる気力もないのか、振りほどけた着物をなおそうともしないで、ただがっくりと左膳の脚にとりすがっている。
 この日ごろの打擲《ちょうちゃく》に引きむしられた頭髪がちらばって、部屋じゅうに燃える眼に見えぬ執炎業火《しゅうえんごうか》。
 あまりの態《てい》におさよはすべるように逃げて行ったが、来てみて、思った以上の狼藉《ろうぜき》に胆を消した源十郎、お藤に対してももはや黙っていられないと駈けあがろうとした時!
 阿修羅王《あしゅらおう》のごとく狂い逆上した左膳が、お藤の手をねじあげて身体中ところ嫌わず踏みつけるその形相《ぎょうそう》に! 思わずぎょっとして尻《しり》ごみしていると、陰にふくんだ声が惻々《そくそく》として洩れてきた。
「殿様かい?」
 お藤が、左膳の足の下から、顔をおおう毛髪を通して源十郎へ恨《うら》みの眼光《まなざし》を送っているのだ。
「へん! 殿様がきいてあきれらあ! あたしの念《おもい》を届けてやるからそのかわり隙《すき》をうかがってお艶と見せて舟へ転げこんでくれ――あとのことは悪いようにはしないから、なんてうまいことを言ったのはどこの誰だい」
 源十郎はあわてた。
「これお藤、貴様、のぼせて、何をとりとめもないことを……」
「だまれッ、源十!」
 がなりつけたのは左膳だった。同時に、髪をつかんでお藤を引き起こすと、痛さにあまったお藤は左膳をあおいで悲叫《ひきょう》した。
「よしてください頭だけは! あたしゃお前さんにどうされようと首ったけなんだからね、それゃあ殺すというなら殺されもしようさ。えええ、りっぱに殺されましょうともさ! けど、ちっとでもかわいそうだと思ったら、ねえ丹下様、後生《ごしょう》だからすっぱり斬って、こんな痛いめにあわせないで、あたしも櫛まきお藤だ! あなたのお刀ならいつでも笑って受けましょうよ。だがお待ち、死ぬまえに、あたしにすこし言いぶんがあるんだ」
 と左膳の手を離れて、ふらふらッ! と立ってきたあがり框《がまち》、源十郎の鼻先にべったり崩れて、
「いらっしゃい。おひさしぶりですねえ、ほほほ、その顔! あなたのおかげでお藤もこんなに血だらけになりましたよ」
 にっこりしたかと思うと、左膳をはじめ一同があっけにとられているまえで、お藤の全身が源十郎を望んでおののきわたった。
「二本《りゃん》をきめたのが殿様なら、目ざしはみんな殿様だ! なんだい! 三社まえでだって、頼む時はあんなに程《てい》のいいことを並べやがってそのために人がひどいめにあってるのに、今度あ知らぬ顔の半兵衛だ! そんなのがお侍かい! ちょッ江戸っ児の風上へもおけやしねえ……」
「姐御、姐御、そう気が立っちゃあ話にならねえ。よ、これあ当家の御前《ごぜん》だ。めったなことを……」
 と与吉が気をもんで耳打ちするのを、左膳が横から突きのけた。
「与の公、ひっこんでろッ!」
「そうだとも!」お藤は血腫《ちば》れのした顔をまわして、「与の公なんざ恐れ入って見物してるがいいのさ……ええ、あたしゃこうなったら言うだけのことはいうんだからね――ねえ、そこの殿様、お前さんに頼まれてお艶さんをさらい出す手助けをしたばっかりに、あたしゃ丹下様に叱られてこの始末さ。でも、いっそ嬉しい! 他人と思えば、よもやねえ、こんなお仕置《しお》きはできますまいもの」
 はっと息づまるなかに、痙攣《けいれん》のような笑《え》みを浮かべた左膳、しずかにお藤をどかせて、きらめく一眼を源十郎の面上に射ながら、隻手はもう血に餓える乾雲丸の鯉口《こいぐち》にかかっていた。
「おい、鈴川……」
 と、たいらに呼びかけた左膳の濁声《だみごえ》には、いつ炸裂《さくれつ》するか知れない危険なものが沈んでいた。
「なあ源的、おれと貴公との仲はきのうきょうの交際ではないはずだ。したがって、いかにおれが一身一命を賭して坤竜丸を狙っておるか貴公、とうから百も承知ではないか、しかるにだ――」
 言いながら土間におりた左膳は、みるみる顔いろを変えて、
「しかるに!」
 と一段調子をはりあげた時は、もう自分とじぶんの激情を没して、一剣魔丹下左膳本然の鬼相をあらわしていた。
「おれに助力して坤竜を奪うと誓約しておきながら、なんだッ! 小婦の姿容《しよう》に迷って友を売るとは? やい源十ッ、見さげはてたやつだなてめえはッ!」
 咬《か》みつくようにどなるにつれて左手の乾雲がカタカタカタと鍔《つば》をふるわす。
 風、地に落ちてはちきれそうな沈黙《しずまり》。
 土生仙之助、お藤、与吉ほか二、三の者は、端《はし》近く顔を並べて、戸口の敷居をまたいだままの源十郎と、それに一間のあいだをおいて真向い立っている左膳とを呼吸《いき》もつかず見くらべているのだった。
 ふところ手の源十郎、一桁《ひとけた》うえをいってくすりと笑った。
「丹下!」と低声。「貴様も、そう容易にいきりたつところを見ると、案外子供だなあ! おれは何も貴様のじゃまをしようと思って企《たく》らんだのではないのだ――」
「やかましいッ! だ、黙って、おれに斬らせてくれ貴様を!」
 左膳、だしぬけに眼を細くしてうっとりとなった。怪刀の柄ざわりが、ぐんぐん胸をつきあげてきて、理非|曲直《きょくちょく》は第二に、いまは生き血の香さえかげばいい丹下左膳、右頬の剣創《けんそう》をひきゆがめて白い唇が蛇鱗《だりん》のようにわななく……。
 所を異《こと》にする夜泣きの刀の妄念《もうねん》、焔と化してめらめらとかれの裾から燃えあがると見えた。
 生躍《せいやく》する人肉を刃に断《た》つ!
 毒酒のごときその陶酔が、白昼のまぼろしとなって左膳の五感をしびれさせつつあるのだ。
「き、斬らせてくれ! なあ源公、よう! 斬らせてくれよう、あはははは」
 左膳は、しなだれかかるように二、三歩まえへよろめいた。愕然《がくぜん》! として飛びのいた源十郎。
「わからないやつだな――なるほど、おれはあの晩お艶をひっかついで一足さきに帰った。そりゃあ貴公らと行動をともにしなかったのは、重々おれが悪い。その点はあやまる。
前へ 次へ
全76ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング