て源蔵儀は父源兵衛に引き渡しつかわす。十分に手当をしてやるがよい――源蔵ッ! 狂人の所業《しょぎょう》とみなしてこのたびは差し許す、重ねてかようなことをいたさんよう自ら身分を尊《とうと》び……ではない、第一に法をたっとばんければいかん。わかったな、うむ、一同、立ちませい」
というこの四方八方にゆきとどいたさばきで、源六郎はおもてむきどこまでも百姓の子が乱心したていに仕立てられて、かろうじて罪をのがれ、面倒もなくてすんだのだったが、後の八代将軍吉宗たる源六郎もちろん愚昧《ぐまい》ではない。天下の大法と紀州の若君との苦しい板ばさみに介《かい》して法も曲げず、源六郎をもそこなわず、自分の役儀も立てたあっぱれな忠相の扱いにすっかり感服して、伊勢山田奉行の大岡忠右衛門と申すは情知《じょうち》兼ねそなわった名|判官《はんがん》である。
と、しっかり頭にやきついた源六郎は、その後、淳和奨学両院別当《じゅんなしょうがくりょういんべっとう》、源氏の長者八代の世を相続して、有徳院《うとくいん》殿といった吉宗公になったとき、忠右衛門を江戸表へ呼びだして、きょうは将軍家として初のお目通りである。
越前守忠相と任官された往年の忠右衛門ぴったり平伏してお言葉のくだるのを待っていると――。
しッ、しい――ッ、と側で警蹕《けいひつ》の声がかかる。
と、濃《こ》むらさきの紐が、葵《あおい》の御紋散しでふちどった御簾《みす》をスルスルと捲きあげて、金襴《きんらん》のお褥《しとね》のうえの八代将軍吉宗公を胸のあたりまであらわした。
裃《かみしも》の肘を平八文字に張って、忠相のひたいが畳にすりつく。
お声と同時に、吉宗の膝が一、二寸刻み出た。
「越前、そのほう、余を覚えておろうな?」
はっとした忠相、眼だけ起こして見ると、中途にとまった御簾の下から白い太い羽織の紐がのぞいて……その上に細目《こまかめ》をとおして、吉宗の笑顔がかすんでいた。
むかし、山田奉行所の白洲の夜焚き火のひかりに、昂然《こうぜん》と眉をあげた幼い源六郎のおもかげ。
忠相の眼にゆえ知らぬ涙がわいて手を突いている畳がぽうっとぼやけた。
が、かれはふしぎそうに首をひねった。
「恐れ入り奉りまする――なれど、いっこうわきまえませぬ」
すると吉宗、何を思ったか、いきなり及《およ》び腰に自ら扇子《せんす》で御簾をはねると、ぬっと顔を突き出した。
「越前、これ、これじゃよ。この顔だ。存じおろうが」
忠相は、下座からその面をしげしげ見入っているばかり……じっと語をおさえて。
引っこみのつかない将軍がいらいらしだして、お小姓はじめ並みいる一同、取りなしもできず度を失ったとき、
「さようにござりまする」
憎いほど落ちつき払った越前守の声に、お側御用お取次ぎ高木伊勢守などは、まずほっとしてひそかに汗のひくのを感じた。
「うむ。どうだな?」
「恐れながら申しあげまする――上《かみ》には、よほど以前のことでございまするが、忠相が伊勢の山田奉行勤役中、殺生厳禁《せっしょうげんきん》の二見ヶ浦へ網を入れました小俣《おまた》村百姓源兵衛と申す者の伜、源蔵という狂人によく似ていられまする」
狂者にそっくりとはなんという無礼!
と理由を知らない左右の臣がささやき渡ると、
「そうか。源蔵に似ておるか」
にっこりした吉宗、御簾の中から上機嫌に、
「小俣村の源蔵めも、そのほうごときあっぱれな奉行のはからいを、今さぞ満足に思い返しておるであろう……これよ、越前、こんにちをもって江戸おもて町奉行を申しつくる。吉宗の鑑識《めがね》、いやなに、源蔵の礼ごころじゃ。このうえともに、な、精勤《せいきん》いたせ。頼むぞ」
「はっ、おそれ入り――」
と言いかけた忠相のことばを切って、音もなく御簾がおりると、そそくさと立ちあがる吉宗の姿が、夢のようにすだれ越しに見えたのだったが……。
かつて自分が叱りつけた源六郎さま。
それがもうあんなりっぱに御成人あそばされて――お笑いになる眼だけがもとと変わらぬ。
ほほえみと泪《なみだ》。
すり足で退出するお城廊下の長かったことよ。
あの日、大役をお受けしてからこのかた。
南町奉行としての自分は、はたして何をし、そして、なにを知ったか?
思えば、風も吹き、雨も降った。が、いますべてを識りつくしたあとに、たった一つ残っている大きな謎《なぞ》。
それは、人間である。
人のこころの底の底まで温く知りぬいて、善玉《ぜんだま》悪玉《あくだま》を一眼見わけるおっかない大岡様。
たいがいの悪がじろりと一|瞥《べつ》を食っただけで、思わずお白洲の砂をつかむと言われている古今に絶した凄いすごいお奉行さまにも、煎《せん》じつめれば、この世はやはりなみだと微笑のほか何ものでもなかった……かも知れない。
夢。
――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、会話《はなし》のないのにあいたのか、いつのまにやらごろりと横になった蒲生泰軒、徳利に頭をのせてはや軽い寝息を聞かせている。
ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
強いようでも、流浪《るろう》によごれた寝顔はどこかやつれて悲しかった。
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく手文庫《てぶんこ》を探った。
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の袂《たもと》へ押し入れると、眠っているはずの泰軒先生、うす眼をあけて見てにっことしたが、そのまま前にも増して大きないびきをかき出した。
とたんに、
庭前を飛んで来たあわただしい跫音《あしおと》が縁さきにうずくまって、息せききった大作の声が障子を打った。
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。
緑面女夜叉《りょくめんにょやしゃ》
「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
忠相《ただすけ》が室内から声をはげますと、そとの伊吹大作はすこしく平静をとりもどして、
「出ました、辻斬《つじぎ》りが! あのけさがけの辻斬り……いま御門のまえで町人を斬り損じて、当お屋敷の者と渡りあっております」
「辻斬り? ふんそうか」
とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
月も星もない真夜中。
広い庭を濃闇《のうあん》の霧が押し包んで、漆黒《しっこく》の矮精が樹から木へ躍りかわしているよう――遠くに提灯の流れて見えるのは、邸内を固める手付きの者であろう。
池の水が白く光って風は死んでいた。
ただ、深々と呼吸《いき》づく三|更《こう》の冷気の底に、
声のない気合い、張りきった殺剣《さつけん》の感がどこからともなくただよって、忠相は、満を持して対峙《たいじ》している光景《さま》を思いやると、われ知らず口調が鋭かった。
「曲者は手ごわいとみえるが、誰が向かっておる」
「岩城《いわき》と新免《しんめん》にござりますが、なにぶん折りあしくこの霧《きり》で……」
「門前――と申したな。斬られた者はいかがいたした?」
「商家の手代風《てだいふう》の者でございますが、この肩さきから斜めに――いやもう、ふた目と見られませぬ惨《むご》い傷で……」
「長屋で手当をしてつかわしておりますが、所詮《しょせん》助かりはすまいと存じまする」
言うまも、剣を中に気押し合うけはいが、はちきれそうに伝わってくる。
「無辜《むこ》の行人をッ! 憎いやつめ! しかも大岡の屋敷まえと知っての挑戦であろう」
太い眉がひくひくとすると、忠相は低く足もとの大作を疾呼《しっこ》した。
「よし! いけッ! 手をかしてやれ、斬り伏せてもかまわぬ」
そして、柄をおさえて走り去る大作を見送って、しずかに部屋へ帰りながら、血をみたような不快さに顔をしかめた忠相は、ひとり胸中に問答していた。
このけさ掛け斬りの下手人が、左腕の一剣狂であることは、自分は最初から見ぬいていた。それをさっき泰軒に、やれ左ききであろうの、数人に相違ないのと言ったのは、泰軒といえども自分以外の者である以上、あくまでも探査の機密を尊《たっと》んでおいて、ただそれとなくその存意をたぐり出すために過ぎなかったのだが――。
なかでは、泰軒が帯を締めなおしていた。
天下何者にも低頭《ていとう》しないかれも、大岡越前のためにはとうから身体を投げ出しているのだ。
「聞いたぞ、おれが出てみる」
「よせ!」忠相は笑った。
「貴様に怪我《けが》でもされてはおれがすまん」
「なあに、馬鹿な」
一言吐き捨てた泰軒は、
「帰りがけにのぞくだけだ……では、また来る」
と、もう闇黒《やみ》の奥から笑って、来た時とおなじように庭に姿を消すが早いか、気をつけろ! と追いかけた忠相の声にもすでに答えなかった。
無慈悲の辻斬り! かかる人鬼の潜行いたしますのも、ひとえに忠相不徳のなすところ――と慨然《がいぜん》と燈下に腕をこまぬく越前守をのこして、陰を縫って忍び出た泰軒が、塀について角へかかった時!
ゆく手の門前に二、三大声がくずれかかるかと思うと、フラフラと眼のまえに迷い立った煙のような人影?
ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身|痩躯《そうく》、乱れた着前《まえ》に帯がずっこけて、左手の抜刀をぴったりとうしろに隠している。
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の尖《さき》が小石をはじいてカチ! と鳴った。
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて前方《まえ》をのぞいた。片腕の影がすすり泣いていると思ったのは耳のあやまりで、ケケケッ! と、けもののように咽喉笛《のどぶえ》を鳴らして笑っていたのだった。
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに跳剣《ちょうけん》一下して、やみを割った白閃が泰軒の身にせまった。
垣根に房楊枝《ふさようじ》をかけて井戸ばたを離れた栄三郎を、孫七と割りめしが囲炉裡《いろり》のそばに待っていた。
千住《せんじゅ》竹の塚。
ほがらかな秋晴れの朝である。
軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「百舌《もず》だな……」
栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも田舎《いなか》だ。閑静でいい。こういうところにいると人間は長生きをする」
と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ乾《ほ》してそれにぼんやりと、うすら寒い初冬の陽がさしているのを眺めていた。
孫七は黙って飯をほおばっていた。
鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。神田明神《かんだみょうじん》なぞ――」
お兼《かね》婆さんが給仕盆を差しだしながら、穂《ほ》をつぐように話しかけると、
「お兼もいっしょに食べたらどうだ? そう客あつかいをされては厄介者の私がたまらぬ」
と栄三郎はすすめてみたが、お兼も箸をとろうともしなければ、息子の孫七も口を添えないので、三人はそれきり言葉がとぎれて、黒光りのする百姓家のなかに貧しい朝餉《あさげ》の音が森閑《しん
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