へ入るとしましょう」
 と言ったが立ちあがりもしない。
 府内を席捲《せっけん》しつつある袈裟掛けの闇斬《やみぎ》り!
 それよりも、なにか庭に、自分に見えない物が、主人の瞳にだけうつるらしいのが大作には気になったが、ほとんど命令するような忠相の口調におされて、平伏のままかれは座をさがったのだった。

 用人の伊吹大作が唐紙に呑まれて、やがて跫音の遠ざかるのを待っていた忠相は、灯《あか》りを手に、つとたちあがって縁に出ると、庭のくらがりを眼探《まさぐ》って忍びやかに呼びかけた。
「蒲生《がもう》か――泰軒《たいけん》であろう、そこにいるのは」
と、沓脱《くつぬ》ぎから三つ四つむこうの飛び石の上に、おなじく低い声があった。
「何やら役向きの話らしいから遠慮しておった。じゃまならこのまま帰る」
いい捨てて早くもきびす[#「きびす」に傍点]を返そうとするようすに、忠相はあわてて、
「遠慮は貴様の柄でないぞ、ははははは、なにじゃまなものか。ひさしぶりだ。よく来たな。さ、誰もおらん。まあ、こっちへあがれ」
 満腹の友情にあふれる笑い口から誘われて、ぬっと手燭《てしょく》の光野へ踏みこんできた人影を見ると……つんつるてんのぼろ一枚に一升徳利。
 この夜更けに庭からの訪客はなるほど蒲生泰軒をおいてあり得なかった。
 泥足《どろあし》のまま臆《おく》するところもなく自ら先に立って室内へ通った泰軒|居士《こじ》、いきなり腰をおろしながらひょい[#「ひょい」に傍点]と忠相の書見台をのぞいて、
「なんだ? なにを読みおる? うむ、旱雲賦《かんうんぷ》か。賈誼《かぎ》の詩だな――はるかに白雲の蓬勃《ほうぼつ》たるを望めば……か、あははははは」
 とこの豁達《かったつ》な笑いに忠相もくわわって、ともに語るにたる親交の醍醐味《だいごみ》が、一つにもつれてけむりのように立ちこめる。
 裾をたたいて着座した南町奉行大岡越前守忠相。
 野飼いの奇傑《きけつ》蒲生泰軒は、その面前にどっか[#「どっか」に傍点]と大あぐらを組むと、ぐいと手を伸ばして取った脇息を垢《あか》じみた腋《わき》の下へかいこんで、
「楽《らく》だ」
 光沢《つや》のいい忠相の豊頬《ほうきょう》にほほえみがみなぎる。
「しばらくであったな」
「まったくひさしぶりだ」
 で、またぽつん[#「ぽつん」に傍点]と主客眼を見合って笑っている。多く言うを要しない知己《ちき》の快《こころよ》さが、胸から胸へと靉靆《あいたい》としてただよう。
 夜風にそっ[#「そっ」に傍点]と気がついて、忠相は立って行って縁の障子をしめた。帰りがけに泰軒のうしろをまわりながら、
「痩《や》せたな、すこし」
「俺か……」と泰軒は首すじをなで、「何分|餌《えさ》がようないでな、はははは。しかし、そういえば、このごろおぬし眼立って肥った。やはり徳川の飯はうまいとみえる」
 越前はいささかまぶしそうに、
「相変わらず口が悪いな。どこにおるかと案じておったぞ」
「どこにもおりゃせん。と同時に、どこにでもおる。いわば大気じゃな。神韻《しんいん》漂渺《ひょうびょう》として捕捉しがたしじゃ――はははは、いや、こっちは病知らずだが、おぬしその後、肩はどうだ? 依然として凝《こ》るか」
「なに、もうよい。さっぱりいたした」
「それは何より」
「互いに達者で重畳《ちょうじょう》」
 ふたりはいっしょにぴょこりと頭をさげあって、哄然《こうぜん》と上を向いて笑った。
 が、泰軒は忠相の鬢《びん》に、忠相は泰軒のひげ[#「ひげ」に傍点]に、初霜に似た白いものをみとめて、何がなしにこころわびしく感じたのであろう。双方《そうほう》ふっ[#「ふっ」に傍点]と黙りこんで燭台の灯影に眼をそらした。
 中間部屋《ちゅうげんべや》に馬鹿ばなしがはずんでいるらしく、どっ[#「どっ」に傍点]と起こる笑い声が遠くの潮騒《しおさい》のように含んで聞こえる。
 秋の夜の静寂は、何やら物語を訴うるがごとくその縷々《るる》たる烏有《うゆう》のささやきに人はともすれば耳を奪われるのだった。
 対座して無言の主客。
 一は、いま海内《かいだい》にときめく江戸南町奉行大岡越前守忠相。他は、酒と心中しよか五千石取ろかなんの五千石……とでも言いたい、三|界《がい》無宿《むしゅく》、天下の乞食先生蒲生泰軒。
 世にこれほど奇怪な取りあわせもまたとあるまい。しかも、この肝胆《かんたん》あい照らしたうちとけよう。ふしぎといえばふしぎだが、男子|刎頸《ふんけい》の交わりは表面のへだてがなんであろう。人のきめた浮き世の位、身の高下がなんであろう! 人間忠相に対する人間泰軒――思えば、青嵐《せいらん》一過して汗を乾かす涼しいあいだがらであった。
 とは言え。
 大岡さまの前へ出て、これだけのしたい三昧《ざんまい》……巷の一|快豪《かいごう》蒲生泰軒とはそも何者?

   いすず川

「貴様、どこからはいりおった? 例によってまた塀を乗りこえて来たのか」
 忠相《ただすけ》はこう眼を笑わせて、悠然と髯《ひげ》をしごいている泰軒を見やった。
 泰軒の肩が峰のようにそびえる。
「べつに乗り越えはせん。ちょっとまたいできた、はははは甲賀流忍術《こうがりゅうにんじゅつ》……いかなる囲みもわしにとけんということはないて、いや、これは冗談だが、こうして夜、植えこみの下を這ってきて奉行のおぬしに自ままに見参するなんざあ、俺でなくてはできん芸当であろう」
「うむ。まず貴様ぐらいのものかな。それはいいが」
 と越前守忠相の額に、ちらり[#「ちらり」に傍点]と暗い影が走ると、かれはこころもち声をおとして、「手巧者《てこうしゃ》な辻斬りが出おるというぞ。夜歩きはちと控えたがよかろう」
 すると泰軒、貧乏徳利を平手でピタピタたたきながら、
「噂《うわさ》だけは聞いた。袈裟掛《けさが》け――それも、きまって右肩からひだりのあばらへかけて斜め一文字に斬りさげてあるそうではないか。一夜に十人も殺されたとは驚いたな。もとより腕ききには相違ないが――」
「刀も業物《わざもの》、それは言うまでもあるまい。武士、町人、町娘、なんでもござれで、いや無残な死にざまなそうな。だが、一人の業《わざ》ではないらしい。青山、上野、札《ふだ》の辻《つじ》、品川と一晩のうちに全然方角を異《こと》にして現われおる。そのため、ことのほか警戒がめんどうじゃ」
「うん。いまも来る途中に、そこここの木戸に焚き火をして固めておるのを見た。しかし、おぬしは数人の仕事だというが、おれは、切れ味といい手筋といい、どうも下手人は一人としか思えぬ」
「はて何か心当りでもあるのか」
「ないこともない」
 と泰軒は言葉を切って、胸元から手を差しこんでわき腹をかいていたが、
「いいか。おぬしも考えてみろ……右の肩口から左の乳下へ、といえば、どうじゃな、その刀を握るものは逆手《さかて》でなくてはかなうまい?」
「ひだりききとは当初からの見こみだが、江戸中には左ききも多いでな」
「そこで! 百|尺竿頭《しゃくかんとう》一歩を進めろ!」
 どなるように泰軒がいうと、忠相はにっこり[#「にっこり」に傍点]して大仰《おおぎょう》に膝を打った。
「いや、こりゃまさに禅師《ぜんじ》に一|喝《かつ》を食ったが、いくら江戸でも、左腕の辻斬りがそう何人もいて、みな気をそろえて辻斬りを働こうとも考えられぬ」
「だから、おれは初めから、これは隻腕の一剣客が闇黒《やみ》に左剣をふるうのかも知れぬといっておるではないか」
「ふうむ。なるほど、一理あるぞこれは! して、何奴《なにやつ》かな、その狂刃の主《ぬし》は?」
「まあ待て。今におれが襟がみ取って引きずって来て面を見せてやるから」
 大笑すると、両頬のひげが野分《のわき》の草のようにゆらぐ、忠相は心配そうな眼つきをした。
「また豪《えら》そうな! 大丈夫か。けがでもしても知らんぞ」
「ばかいえ、自源流《じげんりゅう》ではまず日本広しといえどもかく申す蒲生泰軒の右に出る者はあるまいて」
 言い放って袖をまくった泰軒、節《ふし》くれだった腕を戞《かっ》! と打ったまではいいが、深夜の冷気が膚にしみたらしく、その拍子にハアクシャン! と一つ大きなくしゃみをすると、自分ながらいまの稚心《ちしん》がおかしかったとみえ、
「新刀試し胆《きも》だめしならば一、二度ですむはず……きょうで七、八日もこの辻斬りがつづくというのは、何百人斬りの願《がん》でも立てたものであろうと思われるが――」
 となかば問いかける忠相の話を無視して、かれはうふふ[#「うふふ」に傍点]とふくみわらいをしながら、勝手に話題を一転した。
「お奉行さまもええが、小うるさい件が山ほどあろうな」
「うむ。山ほどある。たまには今夜のように庭から来て、知恵をかしてくれ」
「まっぴらだ。天下を奪った大盗のために箒《ほうき》一本|銭《ぜに》百文の小盗を罰して何がおもしろい?」
 こう聞くと、忠相が厳然とすわりなおした。
「天下は、呉越《ごえつ》いずれが治めても天下である。法は自立だ」
「それが昔からおぬしのお定り文句だった、ははははは」
「越前、かつて人を罰したことはない。人の罪を罰する。いや、人をして罪に趨《はし》らしめた世を罰する――日夜かくありたいと神明に祈っておる」
 泰軒は忠相の眼前で両手を振りたてた。
「うわあ! 助からんぞ! わかった、わかった、理屈はわかった! だがなあ、聞けよおぬし、人間一|悟門《ごもん》に到達してすべてがうるさくなった時はどうする? うん? 白雲先生ではないが、旧書をたずさえ取って旧隠《きゅういん》に帰る……」
「野花啼鳥《やかていちょう》一般《いっぱん》の春《はる》、か」
 と忠相がひきとると、ふたりは湧然《ゆうぜん》と声を合わせて笑って、切りおとすように泰軒がいった。
「おぬしも、まだこの心境には遠いな」
 さびしいと見れば、さびしい。
 ことばに懐古の調があった。秋夜孤燈《しゅうやことう》、それにつけても思い出すのは……。
 十年一むかしという。
 秩父《ちちぶ》の山ふところ、武田の残党として近郷にきこえた豪族《ごうぞく》のひとりが、あてもない諸国|行脚《あんぎゃ》の旅に出でて五十鈴《いすず》川の流れも清い伊勢の国は度会《わたらい》郡山田の町へたどりついたのは、ちょうど今ごろ、冬近い日のそぼそぼ[#「そぼそぼ」に傍点]暮れであった。

 外宮《げくう》の森。
 旅人宿の軒行燈に白い手が灯を入れれば……訛《なま》りにも趣《おもむき》ある客引きの声。
 勢州《せいしゅう》山田、尾上《おのえ》町といえば目ぬきの大通りである。
 弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その街上《まち》なかに一団の人だかりがして、わいわい罵《ののし》りさわぐ声がいやがうえにも行人《こうじん》の足をとめていた。
 往き倒れだ。
 こじきの癲癇《てんかん》だ。
 よっぱらいだ。
 いろんな声が渦をまく中央に、浪人とも修験者《しゅげんじゃ》とも得体の知れない総髪《そうはつ》の男が、山野風雨の旅に汚れきった長半纒《ながはんてん》のまま、徳利を枕に地に寝そべって、生酔いの本性たがわず、口だけはさかんに泡といっしょに独り講釈をたたいているのだった。酒に舌をとられて、いう言葉ははっきりしないが、それでも徳川の世をのろい葵《あおい》の紋をこころよしとしない大それた意味あいだけは、むずかしい漢語のあいだから周囲の人々にもくみ取ることができた。
 代々秩父の山狭《さんきょう》に隠れ住む武田の残族《ざんぞく》蒲生泰軒。
 冬夜の炉辺《ろへん》に夏の宵の蚊《か》やりに幼少から父祖古老に打ちこまれた反徳川の思念が身に染み、学は和漢に剣は自源《じげん》、擁心流《ようしんりゅう》の拳法《けんぽう》、わけても甲陽流軍学にそれぞれ秘法をきわめた才胆をもちながら、聞き伝えて、争って高禄と礼節をもって抱えようとする大藩諸侯の迎駕《げいが》を一蹴して、飄々然《ひょうひょうぜん》と山をおりたかれ泰軒は
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