掛け声、跫音《あしおと》、一合二合と激しく撃ちあう響き!
 あれ! 栄三郎様、勝って! 勝って! と弥生が気をつめた刹那、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》ッ――と倒れるけはいがして、続いて、
「参った! お引きくだされ、参りました」という栄三郎の声、はっとして弥生がのぞくと、竹刀を遠くへ捲《ま》き飛ばされた諏訪栄三郎、あろうことか、板の間に両手をついている!
 わざとだ! わざと負けたのだ! と心中に叫んだ弥生は、きっと歯を噛《か》んで駈け戻ったが、こみ上げる涙は自分の居間へ帰るまで保たなかった。障子をあけるやいなや、弥生はそこへ哭《な》き伏した。
「わたしを嫌ってわざと負けをお取りになるとは、栄三郎さま、お恨みでございます! おうらみでございます。ああ――わたしは、わたしは」
 胸を掻き抱いて狂おしく身をもむたびに、緋鹿子《ひかのこ》が揺れる。乱れた前から白い膚がこぼれるのも知らずに、弥生はとめどもない熱い涙にひたった。
 この時、玄関に当たって人声がした。
「頼もう!」
 根岸あけぼのの里、小野塚鉄斎のおもて玄関に、枯れ木のような、恐ろしく痩せて背の高い浪人姿が立っている。
 赤茶けた髪を大髻《おおたぶさ》に取り上げて、左眼はうつろにくぼみ、残りの、皮肉に笑っている細い右眼から口尻へ、右の頬に溝のような深い一線の刀痕がめだつ。
 たそがれ刻《どき》は物の怪《け》が立つという。
 その通り魔の一つではないか?――と思われるほど、この侍の身辺にはもうろうと躍る不吉の影がある。
 右手をふところに、左手に何やら大きな板みたいな物を抱えこんで奥をのぞいて、
「頼もう――お頼み申す」
 と大声だが、夕闇とともに広い邸内に静寂がこめて裏の権現様の森へ急ぐ鳥の声が空々と聞こえるばかり。侍はチッ! と舌打ちをして、腋《わき》の下の板を揺り上げた。
 道場は大混乱だ。
 必ず勝つと信じていた栄三郎が森徹馬と仕合って明らかに自敗をとった。弥生を避けて負けたのだ! 早く母に死別し、自分の手一つで美しい乙女にほころびかけている弥生が、いま花の蕾に悲恋の苦をなめようとしている! こう思うと鉄斎老人、煮え湯をのまされた心地で、栄三郎の意中をかってに見積もってあんな告げ紙を貼り出したことが、今はただ弥生にすまない! という自責の念となり、おさえきれぬ憤怒に転じてグングン胸へ突きあげてくる。
 鉄斎は起って来て、栄三郎をにらみつけた。
「これ、卑怯者、竹刀を取れ!」
 栄三郎の口唇《くちびる》は蒼白い。
「お言葉ながらいったん勝負のつきましたものを――」
「黙れ、黙れ! 思うところあってか故意に勝ちをゆずったと見たぞ。作為《さくい》は許さん! もう一度森へかかれッ!」
「しかし当人が参ったと申しております以上――」
「しかし先生」徹馬も一生懸命。
「エイッ、言うな! 今の勝負は鉄斎において異存があるのだ。ならぬ、今いちど立ち会え!」
 この騒ぎで誰も気がつかなかったが、ふと見ると、いつのまに来たものか、道場の入口に人影がある。玄関の侍が、いくら呼んでも取次ぎが出ないのでどんどんはいりこんで来たのだ。
 相変わらず片懐中手《かたふところで》、板をさげている。
 鉄斎が見とがめて、近寄っていった。
「何者だ? どこから来おった!」
「あっちから」
 ぬけぬけとした返事。上身をグッとのめらせて、声は優しい。一同があっけにとられていると、今日の仕合に優勝した仁《じん》と手合せが願いたいと言う。
 名は! ときくと、丹下左膳《たんげさぜん》と答える。流儀は? とたたみかけると、丹下流……そしてにやりとした。
「なるほど。御姓名が丹下殿で丹下流――いや、これはおもしろい。しかし、せっかくだが今日は内仕合で、他流の方はいっさいお断りするのが当道場の掟《おきて》となっておる。またの日にお越しなさい」
 ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、咽喉《のど》で笑った。
「またの日はよかったな。道場破りにまたの日もいつの日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」
 片手で突き出した板に神変夢想流指南《しんぺんむそうりゅうしなん》小野塚鉄斎道場と筆太の一行!
 や! 道場の看板! さては、門をはいりがけにはずして来たものと見える。おのれッ! と総立ちになろうとした時、
「こうしてくれるのだッ!」
 と丹下左膳、字看板を離して反《そ》りかえりざま、
 カアッ、ペッ!
 青痰《あおたん》を吐《ひ》っかけたは。
 はやる弟子を制して大手をひろげながら、鉄斎が森徹馬をかえりみて思いきり懲《こ》らしてやれ! と眼で言うその間に左膳は、そこらの木剣を振り試みて、一本えらみ取ったかと思うと、はやスウッ! と伸びて棒立ち。裾に、女物の下着がちらちら
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