いわれてぽっかり眼をあけた鉄斎、サラサラと紙をのべながら、夢でも見ているように突然《だしぬけ》にいい出した。
「明日は諏訪《すわ》が勝ち抜いて、この乾雲丸をさすにきまっておる。ついでだが、そち、栄三郎をどう思う?」
諏訪栄三郎! と聞いて、娘十八、白い顔にぱっと紅葉が散ったかと思うと、座にも居|耐《た》えぬように身をもんで、考えもなく手が畳をなでるばかり――返辞はない。
墨の香が部屋に流れる。
「はっはっは、うむ! よし! わかっとる」
大きくうなずいた鉄斎老人、とっぷり墨汁をふくんだ筆を持ちなおすが早いか、雄渾《ゆうこん》な字を白紙の面に躍らせて一気に書き下した。
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本日の試合に優勝したる者へ乾雲丸に添えて娘弥生を進ず
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]小野塚鉄斎
「あれ! お父さまッ!」
と叫んで弥生の声は、嬉しさと羞《はじ》らいをごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にして、今にも消え入りそうだった。
広やかな道場の板敷き、正面に弓矢八幡の大|額《がく》の下に白髪の小野塚鉄斎がぴたり[#「ぴたり」に傍点]と座を構えて、かたわらの門弟の言葉に、しきりにうなずきながら、微笑をふくんだ眼を、今し上段に取った若侍の竹刀《しない》から離さずにいる。
乱立《らんだ》ちといおうか、一風変わった試合ぶりだ。
順もなければ礼もない。勝負あったと見るや、一時に五、六人も跳び出して、先を争って撃ってかかるが、最初に一合あわせた者がその敵に立ち向かって、勝てば続けて何人でも相手にする。しかし一度引っこむと二度は出られない。こうして最後に勝ちっ放したのが一の勝者という仕組みである。
出たかと思うと。すぐ参った! とばかり、帰りがけに早々《そうそう》お面をはずしてくる愛嬌者もある。早朝から試合がつづいて、入れ代わり立ちかわり、もう武者窓を洩れる夕焼けの色が赤々と道場を彩《いろど》り、竹刀をとる影を長く板の間に倒している。
内試合とは言え、火花が散りそう――。
時は、徳川八代将軍|吉宗《よしむね》公の御治世《ごじせい》。
人は久しく泰平に慣れ、ともすれば型に堕《お》ちて、他流には剣道とは名ばかりで舞いのようなものすらあるなかに、この神変夢想流は、日ごろ、鉄斎の教えが負けるな勝て! の一点ばりだから、自然と一門の手筋が荒い。ことに今日は晴れの場、乾坤の刀――とそれに!
道場の壁に大きな貼り紙がしてある。
勝った者へ弥生をとらせる! 先生のひとり娘、曙小町の弥生様が賭競《かけど》りに出ているのだ。なんという男冥利、一同こころひそかに弓矢八幡と出雲の神をいっしょに念じて、物凄い気合いをただよわせているのもむりではない。誰もが一様に思いを寄せている弥生、剣家の娘だから恨みっこのないように剣で取れ――こう見せかけながら、実は鉄斎の腹の中で技倆《うで》からいっても勝つべき若者――婿《むこ》として鑑識《めがね》にかなった諏訪栄三郎という高弟がひとりちゃん[#「ちゃん」に傍点]と決まっていればこそ、こんな悪戯《いたずら》をする気にもなったのだろうが、これは栄三郎を恋する娘ごころを思いやって、鉄斎老人が、父として粋をきかしたのだった。
「誰だ? お次は誰だ?」
今まで勝ち抜いて来た森|徹馬《てつま》、道場の真中に竹刀を引っさげて呼ばわっている。いろんな声がする。
「かかれ、かかれ! 休ませては損だ」
「誰か森をひしぐ者はないか――諏訪! 諏訪はどうした? おい、諏訪氏!」
「そうだ、栄三郎はどこにいる!」
やがてこのざわめきのなかに、浅黄|刺子《さしこ》の稽古着に黒塗《くろぬり》日の丸胴をつけた諏訪栄三郎が、多勢の手で一隅から押し出されると、上座の鉄斎のあから顔がにっこりとして思わず肩肘《かたひじ》をはって乗り出した。
と、母家《おもや》と廊下つづきの戸の隙間に、派手な娘友禅がちらと動いた。
栄三郎は、浅草|鳥越《とりごえ》に屋敷のある三百俵蔵前取りの御書院番、大久保藤次郎の弟で当年二十八歳、母方の姓をとって早くから諏訪と名乗っている。女にして見たいような美男子だが、底になんとなく凜《りん》としたところがあって冒《おか》しがたいので、弥生より先に鉄斎老人が惚れてしまった。
ぴたり――相青眼《あいせいがん》、すっきり爪立った栄三郎の姿に、板戸の引合せから隙見している弥生の顔がぽうっと紅をさした。まだ解けたことのない娘島田を傾けて、袖屏風《そでびょうぶ》に眼を隠しながら一心に祈る――何とぞどうぞ栄三郎さま、弥生のためにお勝ちなされてくださいますよう!
勝負は時の運とかいう。が、よもや! と思っていると、チ……と竹刀のさきが触れ合う音が断続して、またしいんと水を打ったよう――よほどの大仕合らしい。
と、
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