丹下左膳
乾雲坤竜の巻
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)更《ふ》けてゆく

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大小|二口《ふたふり》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》
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   夜泣きの刀

 しずかに更《ふ》けてゆく秋の夜。
 風が出たらしく、しめきった雨戸に時々カサ! と音がするのは庭の柿の病葉《わくらば》が散りかかるのであろう。その風が隙間を洩れて、行燈《あんどん》の灯をあおるたびに、壁の二つの人影が大入道のようにゆらゆらと揺ぐ――。
 江戸は根津権現《ねづごんげん》の裏、俗に曙《あけぼの》の里といわれるところに、神変夢想流《しんぺんむそうりゅう》の町道場を開いている小野塚鉄斎《おのづかてっさい》、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。霜をとかした流水がそのまま凝《こ》ったような、見るだに膚寒い利刃《りじん》である。刀を持った鉄斎の手がかすかに動くごとに、行燈の映《うつ》ろいを受けて、鉄斎の顔にちらちら[#「ちらちら」に傍点]と銀鱗が躍る。すこし離れて墨をすっている娘の弥生《やよい》は、何がなしに慄然《ぞっ》として襟《えり》をかきあわせた。
「いつ見ても斬れそうだのう」
 ひとりごとのように鉄斎がいう。
「はい」
 と答えたつもりだが、弥生の声は口から外へ出なかった。
「年に一度しか取り出すことを許されない刀だが、明日はその日だ――誰が此刀《これ》をさすことやら」
 鉄斎というよりも刀が口をきいているようだ。が、ちら[#「ちら」に傍点]と娘を見返った鉄斎の老眼は、父親らしい愛撫と、親らしい揶揄《からかい》の気味とでいつになく優しかった。すると弥生は、なぜか耳の付け根まであかくなって、あわてて墨をする手に力を入れた。うなだれた首筋は抜けるように白い。むっちりと盛りあがった乳房のあたりが、高く低く浪を打っている。
 轟《ど》ッ――と一わたり、小夜嵐《さよあらし》が屋棟《むね》を鳴らして過ぎる。
 鉄斎は、手にしていた一刀を、錦の袋に包んだ鞘《さや》へスウッ、ピタリと納めて、腕を組んで瞑目《めいもく》した。
 膝近く同じ拵《こしら》えの刀が二本置いてある。
 関《せき》の孫六《まごろく》の作に、大小|二口《ふたふり》の稀代《きだい》の業物《わざもの》がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅《しゃくどう》の柄《つか》に刀には村雲《むらくも》、脇差には上《のぼ》り竜《りゅう》の彫り物があるというところから、大を乾雲丸《けんうんまる》、小を坤竜丸《こんりゅうまる》と呼んでいるのだが、この一|対《つい》の名刀は小野塚家伝来の宝物で、諸国の大名が黄金を山と積んでも、鉄斎老人いっかな手放そうとはしない。
 乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品《いっぴん》には相違ない。だが、この刀がそれほど高名なのは、べつに因縁《わけ》があるのだと人はいいあった。
 ほかでもないというのは。
 二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一|朝《ちょう》乾雲と坤竜が所を異《こと》にすると、凶《きょう》の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかないというのだ。
 そして刀が哭《な》く。
 離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の檐《のき》も三寸下がるという丑満《うしみつ》のころになると、啾々《しゅうしゅう》としてむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相求め慕《した》いあい二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしく[#「しくしく」に傍点]と泣き出すという。
 明日は、十月へはいって初の亥《い》の日で、御玄猪《ごげんちょ》のお祝い、大手には篝火《かがりび》をたき、夕刻から譜代大名が供揃い美々《びび》しく登城して、上様《うえさま》から大名衆一統へいのこ[#「いのこ」に傍点]餅をくださる――これが営中年中行事の一つだが、毎年この日に曙の里小野塚鉄斎の道場に秋の大試合が催されて、高点者に乾雲丸、次点の者に坤竜丸を、納めの式のあいだだけ佩用《はいよう》を許す吉例《きちれい》になっている。もっとも、こういう曰《いわ》くのある刀なのですぐに鉄斎の手へ返すのだけれど、たとえ一時にもせよ、乾坤の刀をさせば低い鼻も高くなるというもの。今年の乾雲丸はぜひとも拙者が――いや、それがしは坤竜をなどと、門弟一同はそれを目的《めあて》に平常の稽古《けいこ》を励むのだった。
 その試合の前夜、鉄斎はこうして一年ぶりに刀を出してしらべている。
「お父様、あの、墨がすれましてございます」弥生に
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