する。やはり右手を懐中にしたままだ。カッとした徹馬、
「右手を出せ」
すると、
「右手はござらぬ」
「何? 右手はない? 隻腕か。ふふふ、しかし、隻腕だとて柔らかくは扱わぬぞ」
左膳、口をへの字に曲げて無言。独眼隻腕の道場荒し丹下左膳。左手の位取りが尋常でない。
が、相手は隻腕、何ほどのことやある?……と、タ、タッ、飄《ひょう》ッ! 踏みきった森徹馬、敵のふところ深くつけ入った横|薙《な》ぎが、もろにきまった――。
と見えたのはほんの瞬間、ガッ! というにぶい音とともに、
「う。う。う。痛《つ》う」
と勇猛徹馬、小手を巻き込んでつっぷしてしまった。
同時に左膳は、くるり[#「くるり」に傍点]と壁へ向きなおって、もう大声に告げ紙を読み上げている。
「栄、栄三郎、かかれッ!」
血走った鉄斎の眼を受けて、栄三郎はひややかに答えた。
「勝抜きの森氏を破ったうえは、すなわち丹下殿が一の勝者かと存じまする」
宵闇はひときわ濃く、曙の里に夜が来た。
日が暮れるが早いか、内弟子が先に立って、庭に酒宴のしたくをいそぐ。まず芝生に筵《むしろ》を敷き、あちこちに、枯れ枝薪などを積み集めて焚き火の用意をし、菰被《こもかぶ》りをならべて、鏡を抜き杓柄《ひしゃく》を添える。吉例により乾雲丸と坤竜丸を帯びた一、二番の勝者へ鯣《するめ》搗栗《かちぐり》を祝い、それから荒っぽい手料理で徹宵《てっしょう》の宴を張る。
林間に酒を暖めて紅葉《こうよう》を焚く――夜は夜ながらに焚き火が風情をそえて、毎年この夜は放歌乱舞、剣をとっては脆《もろ》くとも、酒杯にかけては、だいぶ豪の者が揃っていて、夜もすがらの無礼講《ぶれいこう》だ。
が、その前に、乾坤の二刀を佩《は》いたその年の覇者《はしゃ》を先頭に、弥生が提灯《ちょうちん》をさげて足もとを照らし、鉄斎老人がそれに続いて、門弟一同行列を作りつつ、奥庭にまつってある稲荷《いなり》のほこらへ参詣して、これを納会《おさめ》の式とする掟になっていた。
植えこみを抜けると、清水観音の泉を引いたせせらぎに、一枚石の橋。渡れば築山《つきやま》、稲荷はそのかげに当たる。
月の出にはまがある。やみに木犀《もくせい》が匂っていた。
――丹下左膳に、ともかくおもて向ききょうの勝抜きとなっている森徹馬が打たれてみれば、いくら実力ははるか徹馬の上にあるとわかっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な笑《えみ》をうかべ、貼り紙を楯《たて》に開きなおって、乾雲丸《けんうんまる》と娘御《むすめご》弥生どの、いざ申し受けたいと鉄斎に迫った。いや、あれは内輪《うちわ》の賞で、他流者には通用せぬと説いても、左膳はいっこうききいれない。老いたりといえども小野塚鉄斎、自ら立ち向かえば追っ払うこともできたろうが、今日は娘の身にも関係のあること、ここはあやして帰すが第一、それには乾雲丸さえ許せば、よもや娘までもと言うまい――こう考えたから、そこは年輩、ぐっとこらえて、丹下を一の勝ちとみとめた。
で、書院から捧持《ほうじ》して来た関の孫六の夜泣きの名刀、乾雲丸は丹下左膳へ、坤竜丸《こんりゅうまる》は森徹馬へと、それぞれ一時鉄斎の手から預けられた。
参詣の行列。
泣きぬれた顔を化粧《けわ》いなおした弥生が、提灯を低めて先に立つと、その赤い光で、左膳はじっと弥生から眼を離さなかったが、弥生は、あとから来る栄三郎に心いっぱい占められて気がつかなかった。
やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!
自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如|驚愕《おどろき》の叫びをあげた。
「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」
この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。
「なにイ! タ、丹下がいない?」
「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」
たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。
「彼刀《あれ》をさしたままか?」
その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、
「うん……」
続けざまにうなずくだけ――。
乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。
降って湧いたこの椿事《ちんじ》!
離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤《きょうらんどとう》、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刀が、今や所を異にしたのだ!
……凶の札は投げられた。
死肉の山が現出
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