消すようにドロンでげしょう? あっしゃア――」
「しすましたり矣《い》と此家《ここ》へ飛びこんだのであろうが、ドッコイ! そうは問屋がおろさん。貴様もここへはいるだろうと思って、おれは一足先にあがったのだ」
「どうも質《たち》のよくねえわるさをなさいますよ。びっくりするじゃございませんか」
「ビックリではない。がっかりであろう。とにかく、ざっと暖まったらあがって来て、背中を流してくれ」
「あい。ようがす」
とは答えたものの入って来た時の元気はどこへやら、与吉はがらりとしょげ返って、白く濁った湯に首を浮かべて一渡りそこらを眺めまわしたけれど、眼にはいる雪の肌もいっこうにこころ楽しくない。
奥と入口に魚油の灯がとろとろと燃えて、老若男女の五百|羅漢《らかん》。
仕舞《しま》い湯のせいか女が多い。立て膝して髱《たぼ》をなでつける婀娜女《あだもの》、隅っこの羽目板へへばりついている娘、小|桶《おけ》を占領して七つ道具を並べ立てた大年増、ちょっとの隙《すき》にはいだして洗い粉をなめている赤ん坊、それを見つけて叱る母親、いやもう大変なさわぎ。
喧々囂々《けんけんごうごう》として湯気とともに立ちあがる甲高い声々……その間を世辞湯《せじゆ》のやりとり、足を拭く曲線美《きょくせんび》――与吉がいい気もちに顎《あご》を湯にひたしてヤニさがっていると、
「アアこれこれ与吉、ゆであがらんうちに出て来て流せ」
はじまった! 仕方がないから三助よろしくの体《てい》で、大きな背中をごしごしこすり出すと、
「そんなことではくすぐるようで痒《かゆ》くてならん、もっと力を入れて! もっと! もっと!」
与吉は真赤にりきんでフウフウ言っているが、泰軒はすこしも感じないと見えてしきりに強く強くとうながす。おかげで与吉はふらふらになってしまったのはいいが、いかにも乞食先生の下男のようで、なみいる女客の手まえ男をさげたことおびただしい。
しかも、ようよう流しがすんだかと思うと、アアこれこれ与吉、湯を汲んで参れ、アアこれこれ与吉、脚をもんでくれ、アアこれこれ与吉……与吉がいくつあってもたりない始末。
泰軒先生がさきにあがると、やっとのことで赦免《しゃめん》になった与吉、疲れをいやすどころか、かえってクタクタにくたびれきって部屋へ戻ったが!
先生は階下の裏座敷。
それに、相部屋の毒消し売りはぐっすり寝こんでいるようすだからまず怪しまれる心配はないと、急に思い立って湯の香のさめぬ身体を旅仕度にかため、ひどい奴で、往きがけの駄賃《だちん》に毒消し売りの煙草入れを腰に、ころんでもただは起きないつづみの兄イ、今夜のうちに二本松、八町目、若宮、根子町《ねこちょう》の四宿を突破して、朝には、福島からいよいよ相馬街道へ折れるつもり――用意万端ととのえて、そっと部屋を忍び出ようとしているところへ、
「今晩は、按摩の御用はこちらでございますか、おそくなって相すみません」
宵の口に言いつけておいたあんまが来たので、その声に、ねている毒消し売りがムニャムニャ動き出す。
あわてた与吉、とっさに端の障子を滑らして廊下に出るとにわか盲目とみえて、勘が悪く、まだなんとか言っているのをうしろに聞きながらもとより宿賃は踏み倒し、そのまま軒づたいに裏へ飛びおりてほっと安心!
泰軒先生は委細御存じなく、白河夜船の最中らしい。
こんどというこんどこそは、ものの見事にまいてやったぞ……。
思わず会心の笑みとともに歩き出した与吉、振り返って見ると、宿の洩れ灯に屋号の柳の枝葉が映えて、湯上りの頬に夜風がこころよい。
寂然たる天地のあいだを福島の城下まで五里十七丁。
飯野山の峰はずれに月は低く、星の降るような夜だった。
血筆帳《けっぴつちょう》
堀の水は、松の影を宿して暗く静まり、塗《ぬ》りつぶしたような闇黒《やみ》のなかに、ほの白い石垣が亀甲《きっこう》につづいて大浪のごとく起伏する木立ちのむこうに、天守閣の屋根が夜空をついて望見される。
刻をしらせる拍子木の音が、遠く余韻《よいん》をひいて城内に渡っていた。
外様《とざま》六万石として北東の海辺に覇《は》を唱える相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》殿の湯池鉄壁《とうちてっぺき》、中村城のそと構えである。
寒星、風にまたたいて、深更霜凜烈《しんこうしもりんれつ》。
町家、城中ともに眠りについて、まっくらな静けさが限りなく押しひろがっている……。
と!
なんに驚いてか、寝ていた水禽《みずどり》が低く飛び立ってバサと水面を打った時!――大手の並木みちを蹣跚《よば》うように駆け抜けてきて、そのままタタタ! と二足三あし上《あ》げ橋の板を鳴らしてお城のなかへ踏みこもうとした人影がひとつ。
見とがめた番士数名。たちまちばらば
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