。
思わず固くなった巷の豪蒲生泰軒。
にこやかに温容《おんよう》をほころばせている大岡越前守忠相。
「いかがいたした蒲生。貴公、戦わずして旗をまく気か……さあ、来《こ》い。碁談の間にいい智恵の一つ二つ浮かぼうも知れぬというものじゃ。ははははは」
と碁石を鳴らしていどみかけた忠相。何を思ったか今度は急に小さな声でひとりごとのようにいい出した。
「東照宮どの、ときの奉行に示して曰く、総じて奉行たる者あまりに高持すれば、国中のもの自ら親しみ寄りつかずして善悪知れざるものなり。沙汰《さた》という文字は、沙《すな》に石まじり見えざるを、水にて洗えば、石の大小も皆知れて、土は流れ候《そうろう》。見え来らざれば洗うべきようもなし。これによりて奉行あまりに賢人ぶりいたせば、沙汰もならず物の穿鑿《せんさく》すべきようもなし――と。とかくこの奉行のつとめは厄介《やっかい》なものじゃよ、ははははは、蒲生、察してくれ」
蒲生泰軒、この世に生をうけはじめて、人のまえに頭をさげたのだった。
碁盤《ごばん》をまえに、大岡忠相はまた誰にともなく言葉をつづける。独語のあいだにそれとなく意のあるところを伝えようとするかれのこころであった。
「またのとき、東照宮家康公、侍臣にかたって曰く――いまどきの人、諸人の頭《かしら》をもする者ども、軍法だてをして床几《しょうぎ》に腰を掛け、采配《さいはい》を持って人数を使う手をも汚さず、口の先ばかりにて軍《いくさ》に勝たるるものと心得るは大なる了簡《りょうけん》違いなり、一手の大将たる者が、味方の諸人のぼんのくぼを見て、敵などに勝たるるものにてはなし……これは軍事のおしえじゃが、和時《わじ》における奉行の職務は、すなわち、邪悪を敵とする法のたたかいである。ゆえに、いま善軍の総大将たる奉行が、いたずらに床几に腰をかけ、さいはいを振って人を使いながら自らは手をもよごさず、口さきばかりで構えておってはどうなるものでもない。諸人の後頭部《ぼんのくぼ》を見て閑法をかたるひまに、数歩陣頭に進んで敵の悪を見さだめるのじゃ――いってみれば、身を巷に投ずる。民の心をわが心として親しくその声を聞き、いや、この忠相じしんがすでに民のひとりなのじゃ……王道の済美《さいび》はここに存すると、まあ忠相はつねから信じておるよ、はっははは、おっと! これも碁の戦法! な、蒲生、だからわしはとうの昔からすべてを知っておる、何からなにまでスッカリ調べが届いているのみか、もうそれぞれに手配ができておるのじゃから、安心して――」
「安心して、ひとつ碁といくか」
「さよう。安心して碁と来い」
ふたりはすばやく顔を見合って、同時に爆発するように笑いの声をあげたが、泰軒はすぐさま真顔になって、
「しかし、こうのんびりと碁を打っておるあいだに、おぬしの張った網のなかの大魚は、だいじょうぶだろうな?」
「まず逸《いっ》する心配はない」
「さようか……しかし」と泰軒は盤のうえの黒白ふたつの石をさして、「こう――この石がともに当方の手に帰せんうちに、いま先方を引っくくられては、こっちが困るぞ」
「さ、そこが私事と公法。わしの苦衷《くちゅう》もその間にあるよ。この二石……」
手を伸ばした忠相、ふたつの石を左右にひき離しながら、
「これが目下の状態。しからば当分このままにして傍観するか」
「うむ。早晩必ずこうして見せる」
泰軒の手で、また二つの石がひとつになる。
「そうか。だが、今のところは――」
と忠相は黒の石を手もとへひいて、そばへもうひとつ、同じく黒をパチリと置いた。
「これはこれに属しておるナ」
「そんなら、こっちはこうだ」
いいつつ泰軒も、白に並べて白の石をひとつ、力強く打って忠相を見る。
「フウム!」と腕をこまねいた忠相、「が、泰軒、黒には黒で仲間が多いぞ」
と、ガチャガチャとつかみ出した黒の石を、べた一面に並べて、もとの黒石をぐるりとかこんでしまった。
「おどろかん。ちっともおどろかん」
にっこりした泰軒は、すぐに白の一石をとって白の側へ加えた。
「そっちがその気なら、ひとつこういくか。助太刀御免というところ……」
「ハハハハ!」忠相は笑いだした。「気のせいか、いまおぬしのおいた石はどうも薄よごれておるわい、天蓋無住《てんがいむじゅう》の変り者じゃな、それは、はっはははは」
「こりゃ恐れ入った! おぬしの眼にもそうきたなく見えるかナ――」
と、泰軒、首をひっこめてあたまをかきながら、
「それもそうだが、はじめに黒の一石をわが有《ゆう》にしたそっちの石も、つまり見事な男ぶり……いやなに、石振りではないはずだぞ。虧《か》けとる、ハッハッハ右が欠《か》ける」
「お! そうだったな。眼糞《めくそ》鼻糞《はなくそ》を笑うのたぐいか――しからば、これは
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