どうだ?」
忠相はこういって、石入れの底のほうから欠けた黒の石を取り出して黒団の真ん中へ入れた。
「この不具の石、名もところも素姓も洗ってある。水にて洗えば土は流れて、石の大小善悪もすべて知れ申し候……じゃ、サ、泰軒、いかがいたす?」
迫るがごとき語調とともに、碁によせて事を語る越前守忠相。
奉行なりゃこそ、そうしてまた泰軒が私交の親友なればこそ、こうして公私をわけながら一つに縒《よ》って、何もかも知りつくした二つの胸に智略戦法の橋を渡す――虚々実々《きょきょじつじつ》の烏鷺談議《うろだんぎ》がくりひろげられてゆくのだった。
泰軒のかげに隠れたお艶は、わからないながらにどうなることかと息をこらしている。
昨暮、あさくさ歳の市の雑踏で。
丹下左膳がつづみの与吉を使って諏訪栄三郎へ書き送ったいつわりの書状……それを栄三郎が途におとしたのを拾いあげた忠相は、第一に文字《もじ》が左手書きであることを一眼で看破したのだった。
ひだり書きといえば左腕。ひとりでに頭に浮かぶのが、当時御府内に人血の香を漂わせている逆|袈裟《けさ》がけ辻斬り左腕の下手人だ。
ことに手紙の内容は、何事かが暗中に密動しつつあることをかたっている!
これに端緒《たんちょ》を得た忠相は、用人に命じ、みずからも手をくだして乾坤二刀争奪のいきさつから、それに縦横にまつわる恋のたてひきまで今はすっかり審《しら》べあがっているのだった。
が、奥州浪人丹下左膳の罪科、本所法恩寺橋まえ五百石取り小普請《こぶしん》入りの旗本鈴川源十郎方の百鬼|昼行《ちゅうこう》ぶりはさることながら、いまこれらを挙げてしまっては、それを相手に勢いこんでいる泰軒、栄三郎が力抜けするであろうし、またこの二人をも刀のひっかかりからお白洲《しらす》に名を出さねばならぬかも知れぬ。
それに、鈴川源十郎のうしろには小普請組支配頭|青山備前守《あおやまびぜんのかみ》というものがついていて、鼠賊《そぞく》をひっとらえるのとはこと違い、源十郎を法網にかけるためには一応前もってこのほうへ渡りをつけなければならないし、丹下左膳には、奥州中村の相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》なるれっきとした外様《とざま》さまの思召《おぼしめ》しがかかっていてみれば、いかに江戸町奉行越前守忠相といえども、そううかつに手を出すわけにはいかない。
で、なんとかして諏訪栄三郎が左膳の手から乾雲丸を奪い返したのちに、一気に彼ら醜類《しゅうるい》のうえに、大|鉄槌《てっつい》をくだそうとは思っているが、それかといって、奉行の地位にある者がみだりにわたくし事に手をかすこともできず、このところさすがの忠相も公私《こうし》板ばさみのかたちでいささか当惑していたのだったが――。
ちょうどその時、
きょう風のように乗りこんで来た心友蒲生泰軒、そのかげに隠れるようについている女をチラと見るが早いか、いつぞやそれが田原町二丁目の家主喜左衛門から尋ね方を願い出ている当り矢のお艶という女であることを、人相書によって忠相はただちに見てとっていた。
そのお艶は、坤竜の士諏訪栄三郎と同棲していたので、所在《ありか》がわかったときも、そっとしておけ! と、わざと喜左衛門へしらせなかったくらいだったのが、いまどうして泰軒といっしょにここへ来たのであろう?――忠相はこうちょっと不審に思っていた。
おおよそかくのごとく。
その強記《きょうき》はいかなる市井《しせい》の瑣事《さじ》にも通じ、その方寸には、浮世の大海に刻々寄せては返す男浪《おなみ》女浪《めなみ》ひだの一つ一つをすら常にたたみこんでいる大岡忠相であった。
南町奉行大岡越前守忠相様。
明微洞察《めいびどうさつ》神のごとく、世態人情の酸《す》いも甘《あま》いも味わいつくして、善悪ともにそのまま見通しのきくうえに、神変不可思議《しんぺんふかしぎ》な探索眼《たんさくがん》には、いちめん悪魔的とまで言いたい一種のもの凄さをそなえているのだった。
と!
ふと蒲生泰軒のあたまに閃《ひら》めいたのは、いつか本所の化物屋敷に自分と栄三郎が斬りこみをかけた時突如として現れた、あの始終を知るらしい五梃|駕籠《かご》のことであった。
風のような火事|装束《しょうぞく》の五人の武士!
その正体は今もってわからないが、あのなかの頭《かしら》だった老人! と思い当たると、なぜか彼は、忠相がすべてを察知しているわけが読めたような気がして、その時まで碁盤をにらんでいた顔をあげると泰軒、ニッと忠相に笑いかけた。
しかし、忠相はその微笑にこたえなかった。
「なあ、蒲生!」
と、じっと盤を見つめていたが、
「どうする気だ、その碁を」
「もとよりあくまでもやる! 運命の二石をひとつにするまでは」
「貴公らしい
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