…栄三郎殿にもあんたにも気の毒だが、では、一刻も早くここを出るとしようか」
 ということになって、お艶は泣きじゃくりながら身のまわりの小物を包みにして、しきりに鼻をかんでいる泰軒とともに、栄三郎の帰らぬうちにと、そろって瓦町の侘《わ》び住居を立ちいでたのだった。
 うしろ髪を引かれる思いのお艶と、磊落《らいらく》に笑いながら胸中にもらい泣きを禁じ得ない蒲生泰軒先生と――。
 爾来《じらい》数日。
 野良犬のごとく江戸のちまたに夜《よ》な夜《よ》なの夢をむすんだお艶を、諏訪栄三郎になりかわって、豪侠泰軒がちから強く守っていた。
 この女子は栄三郎殿からの預り物……こう思うと泰軒、たとえ一時にしろ、お艶の身の落ち着き方を見とどけなくてはすまされぬ。
 が、家のない身に女の預り物は、さすがの楽天風来坊にも背負いきれぬお荷物になってきた。
 そこで、考えあぐんだのち、はたと思いついたのが蒲生泰軒のこころの友、今をときめく江戸町奉行|大岡越前守忠相《おおおかえちぜんのかみただすけ》――。
「今日はちと肩の凝《こ》るところへ案内をして進ぜよう、だまってついて来なさい」
 こう言って泰軒は、貧乏徳利とお艶をつれて首尾の松の小舟をあとに、白昼うら門からこのお屋敷へはいりこんだのだ。
 どこだろうここは……と泰軒の影にかくれて、おずおず奥庭のお茶室まで来たお艶、でっぷりふとった品《ひん》のいいお殿様と、泰軒先生との友達づきあいの会話のあいだに、このお方こそほかならぬ南のお奉行様と知るや、ここで待つようにと泰軒に言われた縁下の地面に土下座して、いっそう身も世もなくちぢまる拍子に、白い額部《ひたい》が土を押した。
 室内にはまだ沈黙がつづいている――。
「黒!」
 越前守忠相は、あいている障子の間から縁ごしに声を投げた。
 躍るように陽の照る庭さきに、一匹の大きな黒犬が、心得顔に前肢《まえあし》をそろえて見ている。
 宇和島|伊達《だて》遠江守殿から贈られた隣藩土佐産の名犬、忠相の愛する黒というりこうものである。
「黒よ! いかがいたした」
 忠相はのんびりとした顔つきで、また、部屋のなかから犬に話しかけた。黒は尾を振る。
 春日|遅々《ちち》として、のどかな画面。
 ようよう茶ばなしがすんだと思うと、こんどは犬だ。
 相対してすわっている泰軒は、気がなさそうに、それでも黙って黒を見ているだけ……いつになくいささか不平らしい。
 この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、怖《こわ》さのあまり、思わず声をあげて飛びあがろうとするのを、ぐっとおさえて再び平伏した。
 が、よく馴れている犬。
 べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
 部屋のなかでは、忠相が威儀《いぎ》をただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおす衣《きぬ》ずれの音がして、やがて、
「黒! ここへ来《こ》い!」
 りんとしたお奉行さまの声。
 犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
 とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一|瞥《べつ》をくれながら、
「来い! あがってこい! 黒……」
 犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
 それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
 いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
 そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
 うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く室内《なか》へはいれ!」
 と口々のことば……
 つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は交《かた》みにつづく。
 黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
 ハッと胸に来たお艶。
 これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるあ
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