分からすすんではふれたくない――といったようなちょっとぎごちない間がつづいている。
忠相がふきんを取って茶碗をみがく音だけが低く部屋に流れて、泰軒は困ったように腕ぐみをした。
いつも深夜に庭から来る蒲生泰軒、きょうも垣を越えて忍んで来たのかと思うとそうではない。かれとしては未曾有《みぞう》のことには、さっきこうして真《ま》っぴるまひょいと裏門からはいって来たのだが、いかなる妖術《ようじゅつ》を心得ているものか、誰ひとり家人にも見とがめられずに、植えこみづたいに奥へ踏みこんで、突如この茶室のそとに立ったのだった。
あいも変わらぬ天下|御免《ごめん》の乞食姿、六尺近い体躯に貧乏徳利《びんぼうどくり》をぶらさげて、大髻《おおたぶさ》を藁《わら》で束ねたいでたちのまま。
おりからひとり茶室にこもって心しずかに湯の音を聞いていた越前守、ぬっと障子に映る人影に驚いて立っていくと、
「わっはっは、当屋敷の者はすべて眠り猫同然じゃな。このとおり大手をふってまかり通るにとめだていたすものもない。おかげで奉行のおぬしに難なく見参がかなうとは、近ごろもって恐縮のいたり――いや、憎まれ口はさておき、ひさしぶりだったなあ」
という無遠慮《ぶえんりょ》な泰軒の声。
「おう! よく来た!」
と笑顔で迎えながら泰軒のうしろを見た忠相、ちと迷惑《めいわく》な気がしてちらと眉をひそめたのだった。泰軒はひとりではなかった。
そのかげに肩をすぼめてうなだれた若い女……それは今もこの茶室の縁口まえに小さく身を隠して平伏している。
言わずもがな、瓦町の家を抜けて来たお艶であった。
じぶん故《ゆえ》にかわいい栄様を古沼のような貧窮の底へ引きこんでいるさえあるに、そのうえ、あの丹下左膳という怖ろしいお侍から乾雲丸を取り戻して夜泣きの名刀をひとつにするためにも、わが身が手枷《てかせ》足枷《あしかせ》のじゃまとなって、どれだけ栄三郎さまのおはたらきをそいでいることか……。
しかも!
もとはといえば、すべて栄さまが自分を思ってくだすって、弥生《やよい》様のおこころを裏切り、自敗をおとりなされたことから――と思うと、このお艶というものさえなければ、栄三郎さまの剣も自ままに伸びて力を増し、まもなく乾雲丸とやらをとり返して弥生様へお納め申すことであろうし、そしてそうなれば、もとより先様は亡き先生の一粒種、御身分お人柄その他なにから何までまことにお似合いの内裏雛《だいりびな》……こちらのような水茶屋女なぞどうなっても、お艶は栄さまを生命かけてお慕い申せばこそ、その栄三郎さまの栄達、しあわせにまさるお艶のよろこびはござりませぬ。
ただ、この身が種をまきながら、こうして栄さまをひとりじめにしていては四方八方すまぬところだらけ――今日様《こんにちさま》に申しわけなく、そら恐ろしいとでもいいたいような。
自分さえなければ万事《よろず》まるく納まりそう。
得るも恋なら、退くも恋。
いつぞやの夜、ともに泣いた弥生さまの涙を察するにつけても、あきもあかれもせぬ栄三郎様ではあるが、ここはひとつあいそづかしをして嫌われるのが第一……。
それが何よりも栄さまのおため。
つぎに、お刀と弥生様への義理。
また、ひいては江戸のおなごの心意気、浮き世の情道でもあると、こうかたく胸底に誓ったお艶、うしろ姿に手を合わせながらさんざん不貞《ふて》くされを見せたあげく、ああしたいい争いの末、とうとう若いひたむきな栄三郎を怒らせたものの、それだけまたお艶の心中は煮え湯を飲まされるよりつらかったことでしょう。
栄三郎様はこのお艶の心変りを真《ま》にとって、ああア、さても長らく悪い夢を見た――と嘆いていられるに相違ないが……と考えると、弱いこころを義理でかためて鬼にしたお艶であったが、ともすれば気がにぶって、できるものなら詫《わ》びを入れて元もとどおりにとくじけかかるのを自ら叱って、栄三郎が出ていったあと、来合わせた蒲生泰軒にすべてを打ち明け、今後の身の振り方を頼んだのだった。
黙然《もくねん》、松の木のような腕を組んで聞いていた泰軒の眼から、大粒の涙がホロリと膝を濡らすと、かれはあわてて握りこぶしでこすって横を向いてすぐ大声に笑い出した。頬髯《ほおひげ》が浪をうって、泰軒はいつまでも泣くような哄笑をつづけていた。
そして最後に、
「いや。それもおもしろかろう。さすがは栄三郎殿がうちこむほどの女だけあって、お艶どの、あんたは見あげた心がけじゃ。この上は栄三郎殿も力のすべてを刀へ向けて必ずや近く乾雲を奪還することであろうが、さ、そうなった日にはまたあらためて相談、決してこの泰軒が悪いようにはせぬ。きっとそちこちあんたの身の立つようにまとめて見せるから、いわばここしばらくの辛抱《しんぼう》…
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