う》の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈《はらんばんじょう》、恐しい渦を巻きおこさずにはおかない。
 そして、刀が哭《な》く。
 離ればなれの乾雲丸と坤竜丸とが、家の檐《のき》も三寸さがるという丑満《うしみつ》のころになると、啾啾《しゅうしゅう》とむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで相求め慕いあう二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
 この宿運の両刀。
 はなれたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤《きょうらんどとう》、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刃が、いまにいたって依然として所を異にしているのだ。
 のみならず。
 駒形の遊び人つづみの与吉は、丹下左膳の密命を奉じて、奥州中村の城下へ強剣の一団を迎えに走っているに相違ない。これが数十名を擁《よう》して着府すると同時に、左膳は一気に栄三郎方をもみつぶして坤竜丸を入手しようとくわだてている。
 一方、それに対抗する諏訪栄三郎の陣容はいかん?
 かれが唯一の助太刀|快侠《かいきょう》蒲生泰軒《がもうたいけん》先生は、栄三郎に苦しい愛想づかしをして瓦町の家を出たお艶をつれて、あれからいったいどこへ行ったというのだろう?
 二刀ふたたび別れて、新たなる凶の札!
 死肉の山が現出するであろう!
 生き血の川も流れるだろう。
 剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
 そして! その屍山血河《しざんけっか》をへだてて、きわまりなき宿業は結ばれるふたつの冷刃が思い合ってすすり泣く!
 雪の江戸に金いろの朝が来た。
 それからまもなく。
 ある梅|日和《びより》の午《ひる》さがり――南町奉行越前守大岡|忠相《ただすけ》の役宅では。

 雲ひとつない蒼空から霧のように降りこめる陽のひかりに、庭木の影がしんとしずまって、霜どけのまま乾いた土がキチンと箒の目を見せている。
 眼をよろこばせる常磐樹《ときわぎ》のみどり。
 珊瑚《さんご》の象眼《ぞうがん》と見えるのは寒椿《かんつばき》の色であろう、二つ三つ四つと紅い色どりが数えられるところになんの鳥か、一羽キキと鳴いて枝をくぐった。
 幽邃《ゆうすい》な奥庭のほとり――大岡越前守お役宅の茶室である。
 数寄屋《すきや》がかりとでも言うのか、東山同仁斎にはじまった四畳半のこしらえ。
 茶立口、上|壇《だん》ふちつきの床、洞庫《どうこ》、釣棚《つりだな》等すべて本格。
 道具だたみの前の切炉《きりろ》をへだてて、あるじの忠相と蒲生泰軒が対座していた。
 あるかなしかの風にゆらいで、香《こう》のけむりが床《ゆか》しく漂《ただよ》う。
 越前守忠相、ふとり肉《じし》のゆたかな身体を紋服《もんぷく》の着流しに包んで、いま何か言いおわったところらしく黙ってうつむいて手にした水差しをなでている。
 茶筅《ちゃせん》、匙《さじ》、柄杓《ひしゃく》、羽箒《はねぼうき》などが手ぢかにならんで、忠相はひさかたぶりの珍客泰軒に茶の馳走をしているのだった。
 そういえば今は初雪の節、口切りとあってきょう初めて茶壺をあけたものとみえる。
 ぼつんと切り離したような静寂《しじま》、忠相は眼を笑わせて泰軒を見た。
「わしの茶は大坂の如心軒《じょしんけん》に負《お》うところが多い、大口如心軒……当今茶道にかけてはかれの右に出るものはあるまい、風流うらやむべき三昧《さんまい》にあって、かぶき、花月、一二三、廻り炭、廻り花、旦座、散茶、これを七事の式と申して古雅なものじゃが、如心軒が古きをたずねて門下に伝えておる――」
 こう言って忠相はふたたびほほえんだが、泰軒には茶のはなしなぞおもしろくもないのか、それとも何か気になることでもあるのか、つまらなそうに横を向いて、障子の明るい陽にまぶしげに眼をほそめている……無言。
 忠相は動《どう》じない。委細かまわずに語をつづけるのだった。
「茶には水が大事と申してな、京おもてでは加茂《かも》川、江戸では多摩《たま》川の水に限るようなことをいう向きがあるが、わしなぞはどこでもかまわん。まだそこまでいっておらんのかも知れんが、水を云為《うんい》するなど末だと思う。近いはなしがこれは屋敷の井戸水じゃが、要するに心じゃ。うむ、お茶の有難味はこの心気の静寂境にある。どうじゃなお主《ぬし》、いま一服進ぜようかの?」
「いや、茶もいいが、どうもあとの講釈がうるそうてかなわん。あやまる」
 泰軒がとうとう正直に降参して頭をかくと、越前守忠相、そうら見ろ! というように上を向いてアッハッハハと笑ったが、すぐにまじめな顔に返ってじろりと泰軒を見すえた。
 沈黙、
 泰軒は何か用があって来は来たものの、その用むきが言い出しかね、忠相はまた忠相で大体泰軒の用件がわかっていながら、自
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