うけて、お藤は第六天篠塚稲荷のきざはしで……ドロンとかき消えたかどうか? それはそれとして。
まもなく。
魔猫《まびょう》の神通力でももっているものとみえて、いかにしてあの捕網の目をくぐって来たのだろう? 白無垢《しろむく》鉄火の大姐御櫛まきお藤、いつのまにやら粋な隠れ家に納まって、長火鉢のむこうにノホホンとばかり煙管《きせる》をたたいていたが、飛びこんで来た与吉のことばで、左膳に対するその迷妄は再燃した。
思うこころに変わりはないが、それは今度は別のかたちで。
かわいさあまって憎さが百倍――どうせ叶わぬ色恋なら、万事に逆に立ちまわって、あの人のすべてを片っぱしから叩き壊《こわ》してしまえ……こういう意気ごみで丹下左膳を、これも憎い鈴川源十郎の名で訴人したのだったが、あとからすぐに後悔して、あやういところへ駈けつけて左膳を救い出してきたのも、お藤としては最初から変わらぬ一徹恋慕のこころであった。
恋はいろいろに動く。
ことにお藤のような女においては、いっさいの有《ゆう》かいっさいの無《む》、抱きしめる手でそのまま殺すことも彼女にとっては同じだったが、さすがに殺しは得ずして助けて来た左膳、日々近く手もとにおいてみると、もとより嫌いでないどころか、こうして危い江戸をも見捨て得ずに今日こんな苦労を重ねているのも、もとはといえばみんなだれゆえ左膳ゆえのことだから、うば[#「うば」に傍点]桜のお藤、手練手管《てれんてくだ》のかぎりをつくして、ひたすら左膳の意を迎え、心をとらえようと腕によりをかけだしたのだった。
しかも、左膳の慕う弥生が行方知れずになっているいま。
かれの胸中から弥生のまぼろしを駆逐して左膳をわが物とするはこの機であると、そこでお藤、宵から降り出した雪を幸い栄三郎方の裏口に張り込んで、左膳のために脇差坤竜を盗み出したのだが!
いったい左膳とお藤は今どこに隠れているのか?
浅草のお藤の隠れ家?
否! お藤はあれからずっと家へ立ち寄らずに、留守宅にはつづみ[#「つづみ」に傍点]の与の公が今日か明日かとお藤の帰りを待ちわびているはずだ。
してみると剣鬼と女妖、この広い江戸のどこにひそんでいるのだろう?
遠くか。ないしは案外近いかも知れない。
とにかくそれは、いつ朝が来ていつ日が暮れるともない窖《あなぐら》のような闇黒の底だった。
やみ? そうだ。黒暗々の奈落《ならく》。
それは、兇状持ちのお藤が、始終お上《かみ》を向うにまわして陽の目を見ていこうとするために、そこへさえ飛びこめば、いつでも捕り手にスカを食わせることができるようにと、以前ひそかに細工をしておいた秘密の隠れ場所であった。いずこかはわからないが、江戸のなかには相違ない、そして誰ひとり知る者もない穴ぐらなのだから、十手に追われる左膳の身には時にとってこのうえもない便宜であった。
闇黒が左膳を包んでいる。
その暗いなかで、おのれを恋する女とのふしぎな生活がつづいて来ていた。
闇黒――ぬば玉《たま》の無明《むみょう》のやみ。
それはやがて剣に理を失った左膳と、恋に我を忘《ぼう》じ果てたお藤とのこころの姿でもあった。
いまは女の保護のもとに生きる左膳、そとの大雪も知らずに、三坪にたりない暗い穴の中をしきりに往ったり来たりしている。
お藤はまだ帰らない。
はじめお藤の懐中《ふところ》鉄砲によって重囲の化物屋敷からのがれ出たとき。
左膳は。
暮れそめた町々をお藤にそのかくれ家へ案内されながら心中で考えていた。
源十郎が頼みにならないうえに、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉が相馬中村から助剣の勢を求めてくるまで、当分あまんじてこの女にかくまわれていようと。
さすれば御用の者の眼をくらましてこの身は安全。また、乾雲丸を鈴川邸内の物置のかげ、椎《しい》の根方に埋めてあることは誰ひとり知る者もないはずだから、このほうも大丈夫。
こういう気もちから易々諾々《いいだくだく》としてお藤のつれこむにまかせたのが……どこかは知れず、この縁の下のようなせまい穴蔵の底であった。
「ねえ左膳様。ここはあたしのほかだあれ[#「だあれ」に傍点]も知らないところ、いわばあたしの隠れ住居で、いざ[#「いざ」に傍点]という時にはお役人でもなんでもここまでおびき寄せて、ね、ホホホホ、お藤の忍術をごらんに入れるんでございますから、お心おきなくご逗留《とうりゅう》なさいましよ」
こういうお藤の言葉に、左膳はがらになく、
「かたじけない」
とひとこと、改めて身辺を見渡したが、眼に映ったのはあやめ[#「あやめ」に傍点]もわかたぬ闇黒ばかり――暗い地下の一室であった。
低い天井、四囲の壁も床も荒けずりの板で張りつめてあって、かたわらに筵《むしろ》や夜着蒲団の
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