か女の声が……。
「栄三郎さま、もし、栄三郎様――」
うら口では、櫛まきお藤がキッと身をかまえた。
「栄三郎様……栄三郎さん!」
忘れようとして忘れることのできない女の声――それが夜更けをはばかって低く、とぎれがちに、眠っている栄三郎の耳に通う。
コトコト、コトコトと戸外から格子をたたいているらしい。
栄三郎ははじめ夢心地に聞いていた。
が、
「栄三郎様!」
という一声に、もしやお艶が帰って来たのではないかと思うと、もうあんな女にフツフツ用はないと諦めたはずの栄三郎、心の底に自分でもどうすることもできない未練がわだかまっていたのか……。パッと夜着を蹴ってはね起きるより早く、転ぶがごとく土間口に立って、
「お、お艶か!」
戸を引きあける――とたんに、ゴウッ――と露路を渡る吹雪風。
まんじ巴《ともえ》と闇夜におどる六つの花びらだ。
その風にあおられて、白い被衣《かつぎ》をかぶったと見える女の立ち姿が……。
雪女郎?
――と栄三郎が眼をこすっているあいだに、女は、戸口を漏《も》れる光線《ひかり》のなかへはいってきた。
「お艶……ではないナ。誰だッ?」
「わたしですよ、栄三郎さん」
いわれて見ればなるほどお艶の母おさよ、鈴川の屋敷をぬけ出てきたままのいでたちで、掘り出した乾雲丸の刀包みであろう。細長い物を重たそうにかかえている。
「おさよでございますよ。はい、夜分おそく――おやすみのところをお起こし申してすみませんでしたね。あの、お艶は?」
と、きかれた栄三郎、
「なんの」といいかけたが、母御とも呼べず。それかといっておさよ殿も変なものだし、「いや、お艶については、あなたともよく談合いたしたい儀がござる。それにしても、夜中かかる雪のなかをわざわざのお出まし、なんぞ急な御用でも出来《しゅったい》しましたか」
「オオ寒《さむ》!」とおさよは雪をふるい落として、「まあ入れてくださいましよ。お艶が何をいたしたか存じませんが、わたしのほうにもあれのことで折り入ってお話がございましてねえ……それはそうとおさよはいいお土産《みやげ》を持って参りましたよ。どんなにあなたがお喜びになることか。ほほほほ、でかしたと! ほめてやって下さいまし」
ひとりでしゃべりながら土間へはいってくる。
母娘とはいいながら、こんなに声が似ているものか! これでは自分がお艶と間違えて飛び起きたのも無理はない――と栄三郎、たたく水鶏《くいな》についだまされて……の形で、思わず苦笑を浮かべながら、
「さあ、おあがりください」
と、自ら先に立ったが――
これよりさき!
栄三郎が格子戸をあけにいったあと。
ソゥッと音のしないように台所の障子をひいて、水口から顔を出したのは、宵の口から裏に忍んでいた櫛まきお藤であった。
見ると、枕あんどんがぼうと薄暗いひかりを投げて、その下に置いてある一本の脇差! 平糸を締めた鞘、赤銅の柄にのぼり竜の彫りもあざやかに……。
武蔵太郎は、栄三郎が戸口にたつ時に引っつかんでいったので、後に残っているのは坤竜丸ただ一つ! のぞいたお藤の顔がニッとほほえんだ。
左膳を伴い去ったまま今どこに巣をくっているのか、この妖女、栄三郎がおさよと二こと三こと格子先で立ち話をしているあいだに、この機をはずしては左膳様のおために坤竜を手に入れることもまたとできまい! おお! そうだッ! と思うやいなや、抜き足さしあし忍び足――。
間髪! の隙を狙ってはいりこんで来たお藤、坤竜に手がかかるが早いか、サッと袂に抱きしめてもとの裏口へ!
しんにとっさの出来事。
ズウッ! と台所の戸がしまって、あとはトットと雪を踏むお藤の跫音《あしおと》がかすかにうらにひびいた。栄三郎はさよを招じあげながら、何事も気づかずに大声に話していた。
「いや。この大雪のなかを思いきってお出かけになりましたな。何かよほどの急用でも……」
「ほんとにひどい雪ですねえ。わたしゃ本所からここまで来るあいだに三度ころびましたよ、栄三郎さん」
「はっは、それはどうも――が、べつにお怪我もなく……して、さっそくながら御用向きは?」
「降《ふ》りますねえ。いえ、この御土産から……」
おさよ婆さん、はッと呼吸をはずませて乾雲丸の包みをといている。
「全く、よく降ります。明日はかなり積もりましょう」
栄三郎はこうしんみり言って、戸外《そと》の雪を聴くように静かに耳をすましながら、おさよの手もとに見入った。
ぱらり! ぱらり! とほそ長い包装がほどけてゆく音――。
ぱらり、 ぱらり! とおさよの手で幾重にも包んだ油紙とぼろ[#「ぼろ」に傍点]片《ぎれ》がとけてゆくうちに、いつしか堅く唾《つば》をのみながら、じっとおさよの手もとをみつめていた栄三郎の眼に、一閃チラリと
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