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まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
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隣では子供が遊戯《あそび》にふけっている。
と、がらりと格子があいて、ひさしぶりに天下の乞食先生蒲生泰軒のだみ声だ。
「わっはっはっはっは! こりゃ、敷居が高い、御無沙汰《ごぶさた》、御無沙汰!」
びっくりはね起きたお艶の頬にたたみのあとが赤くついていた。
まんじ巴《ともえ》
その夜。
どこをどう歩きまわったものか、栄三郎は頭から肩まで白いものを積もらせて瓦町の家へ帰って来た。いつのまにか雪になっていたのだ。あやうく、
「お艶、いま戻ったぞ」
と口から出そうになるのをおさえて、身体の雪を払ってあがると……まっくら。
かじかんだ手で火打ちを擦《す》る。
ポウッと薄黄色の灯心《とうしん》の光が闇黒ににじんで、珍しく取り片づいた部屋のありさまが栄三郎の眼にうつった。
お艶はいない。
二、三枚の着物や髪の道具をまとめて、あわてて家を出ていったことがわかる。女気のない部屋はどこにも赤い色彩《いろどり》を失って、雪夜ひとしおの寒さが栄三郎の骨にしみる。
が、かれはもう悲しんではいなかった。
「出てうせたか――汚れきった女め――あれほどとは思わなかった――」
と、吐きだすようにつぶやきながら、何か書置きでも? とジロリそこらを見まわす。
何もない。
もはやフッツリと未練をたった栄三郎、
「これあるのみだ」
正座して坤竜丸を取りあげた。
平糸巻《ひらいとま》きの鞘――上り竜を彫った赤銅のつか。
「ひき寄せてくれ、乾雲丸をひきよせてくれ」
呪文《じゅもん》のように言ったかと思うと、ふうっと長く息を吹いた。
自暴酒《やけざけ》でもあるまいが、若い栄三郎、どこでのんだかすこし酔っている。
「あんな女! かえってよいわ。かくなるように最初から決まっていたのだ! よウシ! このうえはただ精根のかぎり立ち働いて乾雲を取り戻すぞ! そうだ。やる! あくまでやる」
愁灯《しゅうとう》のもと、強い決意に眼を輝かせて、栄三郎はしずかに坤竜の柄をなでた。
「――待っておれ。いまに乾雲を奪って、いっしょにして進ぜる。汝もつがいが破られたが、拙者も彼女に別れたひとり者同士、ははははは、けっく気やすだなあ」
悵然《ちょうぜん》と腕をこまねいていたが、突如、畳を蹴って躍りたつと、手にはもう明皓々《めいこうこう》たる武蔵太郎の鞘を走らせて。
刃光らんらんとして一抹の冷気!
「おのれ、丹下左膳!」
とジリリ青眼につけて一隅へ迫ったが、あるものは壁に倒れた己《おの》が影ばかり……いとしい女に去られて気がふれたか諏訪栄三郎、あらず! こみあげて来たとっさの闘意をもてあまして、かれはその場に左膳を仮想し、ひとり刀を擬しているのだ。
「やよ左膳! なんじ一書を寄せて乾雲丸を火事装束の五人組に奪われたと申し出たが、不肖《ふしょう》栄三郎といえどもかかるそらごとは真に受けぬぞ! 小策を弄《ろう》す奸物めッ! いずれそのうち参上してつるぎにかけて申し受くるからさよう心得ろ――はっはははは」
からからと笑いながら刀身を鞘へ……
が! この時!
この栄三郎のにわかの抜刀を、裏口のすきからのぞいて、ビックリあわてた黒い影があったのを栄三郎は知らなかった。
雪に紛れて忍び寄った一人の女が、さっきから勝手の障子にはりついて、そっと家内をうかがっていたのだ。
だれ? と見なおすまでもない。
夜眼にも知れる粋すがたは、道行きめかした手拭をかぶった櫛まきお藤。
急の剣閃《けんせん》におどろいて一時戸を離れたのが、相手なしの見得《みえ》と知ると、またコッソリ水口に帰ってきて、呼吸を殺して隙《すき》見している。
しんしんと音もなく積もる雪。
江戸に、その冬はじめて雪の降った夜だった。
栄三郎は、床を敷いて夜着をかぶった。
モウ――ンとこもって、どこか遠くで刻を知らせる鐘の音。
「四つか」
思うまい――としても、まぶたの裏に花のように咲くのは、出ていったお艶の顔だ。
この降雪《ゆき》に、どこにいることか――当り矢のころからのことが走馬灯《そうまとう》のように一瞬、栄三郎の脳裡《のうり》をかすめる。
きょう留守のあいだに泰軒がきて、お艶からそのふかい真意を明かされ、何か考えるところのあるものか、しばし思案ののち快くお艶の身がらを引き受けて、つれだって家を出て行ったことは、栄三郎は知る由もなかった。
まして、お艶と泰軒のあいだにどんな話しあいがあったやら、――そして泰軒はお艶をいずくへ伴い去ったことか?
……栄三郎は眠りに落ちた。疲れきって、こんこんと深い熟睡《うまい》に。
深更《しんこう》。
ホトホトとおもての格子が鳴って、何者
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