がちらりと陽ざしをさえぎったと思うまもなく、あがり口に泣き崩れたお艶は、露地の溝板《どぶいた》を踏んでゆく栄三郎の跫音《あしおと》がだんだんと遠のくのを、夢のように聞かなければならなかった。
 夢? ほんとにほんとに夢。ながい夢! 泣きはらした眼を部屋へ返したお艶は、栄三郎の羽織がぬぎすててあるのを見ると、はっとして立ちあがった。
 まあ! お羽織なしにこの寒ぞらへ!
 もしや風邪《かぜ》でも召されては!
 と思うとお艶、装《なり》ふりかまっていられる場合ではない。ずっこけた帯のはしをちょいとはさむが早いか、泣き濡れた顔もそのままに羽織を小わきに家を走り出た。

 羽織をかかえて露地ぐちまで走り出てみたけれど、どっちへ行ったものか、栄三郎のすがたはもうそこらになかった。
 ひっそりとした往来のむこうを荷を積んだ馬の列が通り過ぎていった。
 しめっぼい冷たい空気が、町ぜんたいを押しつけている。
 ぼんやりたたずんでいるお艶へ、
「小母《おば》ちゃん、そのおべべを持ってどこイ行くの?」
 と長屋の子供が声をかけたが、お艶は耳にもはいらぬふうだった。
「やあ! 小母ちゃんが泣いてらあ! 泣いてらあ! やあい、おかちいなあ!」
 急に足もとから子供がはやしたてたので、お艶はハッとわれに返って羽織に顔を押し当てた。
「坊や、いい児だね。おばちゃんは泣いてなんかいないからね。さ、あっちへ行ってお遊び」
 子供はふしぎそうに振りかえりながら大通りを駈けぬけていった。
 お艶は、羽織の袖がひきずるのも知らずに片手にさげて、しょんぼりと家に帰った。
 あがってすわってはみたが……広くもない家ながら、栄三郎の出ていったあとはたまらなく淋しかった。孤独の思いがしいん[#「しいん」に傍点]と胸に食いいってくる。
「栄三郎さま」
 呼んでみても聞こえようはずはない。かえってわれとわが低声《こごえ》に驚いて、お艶はあたりを見まわしたが、夢中でつまぐっている膝の栄三郎の羽織に気がつくと、こんどはしんみり[#「しんみり」に傍点]とひとりごとをはじめた。
 ひとりごと? ではない。彼女は羽織を相手に話しているのだった。
「申しわけございません。おこころに曇りのない正直一徹のあなた様をあんなにおこらせ申して、それもこれも夜泣きの刀のため、おかわいそうな弥生さまのおためとは言いながら、思えば、お艶も罪の深い女でございます」
 言葉はいつしかすすり泣きに変わっていた。
「けれども、こうやっていましたのでは、いつになったら埓《らち》のあきますことやら……所詮《しょせん》わたし故《ゆえ》にあなた様をこのままおちぶらせるようなもの――なにとぞお艶をお捨てなされて、存分にお働きくださいまし。一日も早く乾雲丸をお手におさめて弥生様と、弥生さまと――」
 つっぷしたお艶、羽織を揉《も》みながらなみだのあいだからかきくどいた。
「それがお艶の一生のお願いでございますッ! でも……でも、こんなにまでして、心にもないふしだらを並べてお怒りを買わねばならなかったお艶のしん中もすこしはお察しくださいまし。あとで何もかもわかりますから、そうしたらたったひとこと不憫《ふびん》なやつと――栄三郎様ッ! 泣いてやって、泣いてやって……」
 気も狂わんばかりにもだえたお艶は、ガバッと畳に倒れて羽織を抱きしめた。
 別れともなくして別れた男の移り香が、羽織に埋めたお艶の鼻をうっすらとかすめる。
 それがまた新しい泪をさそって、お艶はオオオオウッ! とあたりかまわず大声に泣き放ったが、折りよくいつのまにか隣家に近所の子供が集まって、キャッキャッと笑いながら遊びさわいでいたので、お艶はその物音にまぎれてこころゆくまで慟哭《どうこく》することができたのだった。
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まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
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 となりのさざめきはつのるばかり――お艶も何がなしに幼い気もちに立ち返って小娘のように泣き濡れていた。
 出て行った栄三郎の涙と、残っているお艶のなみだと――。
 父は早く禄を離れて江戸の陋巷《ろうこう》にさまよい、またその父を失ってから母とも別れて、あらゆる浮き世の苦労をなめつくしたお艶にとっては、義理の二字ほど重いものはないのだった。刀の分離といい弥生の悲嘆といい、すべては栄三郎が自分を想ってくださることから――こう考えるとお艶は、おのが恋を捨てても! と一|図《ず》に決して、さてこそあの、裏で手を合わせて表に毒づくあいそづかし……お艶も江戸の女であった。
 何刻かたった。
 お艶はじっと動かない。
 眠っているのだ。
 泣きくたびれて、いつしかスヤスヤと転寝《うたたね》におちたお艶、栄三郎がいれば小掻巻《こかいまき》一つでも掛けてやろうものを。

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