ぼうだとしてとどめもあえぬ栄三郎は、一つずつ区切ってうめきながら、はふり落ちる泪とともに、哀恋の拳が霰《あられ》のようにお艶のうえにくだった。
 愛する者を、愛するがゆえに打たずにはおかれぬくるしさ……。
 よしや振りあげた刹那はいかにいきおいこんでいようとも、その手は、ふりおろす途中に力を失ってお艶の身に触れる時は、おのずから撫《な》でるがごとくであった。
 弾《はじ》き返ったお艶は、栄三郎の手を逃れて柱の根へ飛びさがった。
「何も、あたしをチヤホヤしてくださる方は、鈴川の殿様ばかりとはかぎりません。鍛冶屋の富五郎さんだって、それから当り矢の店へ来てくだすった大店《おおだな》の若旦那やなんか……」
「すべたッ! まだ言うかッ!」
 一声おめいた時、栄三郎の手はわれ知らず柄頭《つかがしら》にかかっていた。
 と見て、お艶は蒼白く笑った。
「ほほほ、このあたしをお斬りになる気でございますか。まあ、おもしろい――けれどねえ、お艶にごひいき筋が多うござんすから、あとでどんな苦情が出るかも知れませんよ」
「…………!」
 無言のうちに、しずかに鞘走らせた武蔵太郎を、栄三郎はっと振りかぶったと見るまに、泣くような気合いの声とともに、氷刃、殺風を生じて、突! 深くお艶の肩を打った。
 ウウウム――!
 と歯を食いしばったお艶、しなやかな胴を一瞬くねらせて、たたみを掻いてうつぶしたのだった。
 が!
 峰打ちだった。
 と、お艶はすぐに、痛みに顔をしかめただけで起きあがろうとしたが、栄三郎はもう武蔵太郎をピタリと鞘に納めて、両手を腰に立ちはだかったまま凝然《じっ》とお艶を見おろしていた。
 その眼……!
 おお、その眼は、人間の愛欲憎念をここにひとつに集めたような、言辞に尽《つ》きた情を宿して、あやしい光に濡れそぼれていた、泣くような――と見れば、笑うような。
 暫時《しばし》の沈黙のうちに、男と女の瞳が互いにその奥底の深意を読もうとあせって、はげしく絡みあい、音をたてんばかりにきしんだ。
 口を開いたのは栄三郎だった。
「お艶! あれほど固く誓い、また今日というきょうまで信じきっておったお前が、かくも汚れた女子であろうとは拙者には思えぬ。いや、どうあっても思いたくないのだ。しかし――」
「…………?」
 いいよどんだ栄三郎を見あげたお艶の顔に、ちらと身も世もあらぬ悲しい色が走ったが、栄三郎が気のつくさきに、それはすぐに不敵なほほえみに消されてお艶は、無言の揶揄《やゆ》であとをうながした。
「…………?」
「しかし、お前という人柄がきょうこのごろのように豹変《ひょうへん》した以上は、拙者としては嫌でもお前の変心を認めざるを得ない。さて、人のこころは水のごときもの、ひとたび流れ去っては百の嘆訴《たんそ》、千の説法ももとへ返すべくはないな、そうであろう? これ、泣いているのか、いまさら何を泣くのだ?」
「はい……いいえ」
「拙者もさとったよ、ははははは、いや、いったんこうはっきりお前の心がおれを離れたとわかってみれば、拙者も男、いたずらにたましいの抜けた残骸《ざんがい》を抱いて快しとはせぬ。そこで、ものは相談だが、きょうかぎりキッパリと別れようではないか」
 いいながら、返答いかに? と思わず栄三郎、口ではとにかく、まだたっぷりと未練《みれん》があるものか、あきらかに弱い不安を面いっぱいにみなぎらせて中腰にのぞきこんだとき、
「す、すみません」
 と口ごもったお艶の声に、まさか……と幾分の望みをかけていた栄三郎は、ややッ! と驚愕にのけ[#「のけ」に傍点]ぞると同時に、あきらめきれぬ新しい慕念がグッと胸さきにこみあげてきて、
「そうか」
 破裂を包んだ低声。
 見せじとつとめる涙が、われにもなくにじみ出てきて――。
 ワッ! とお艶はそこへ哭《な》き伏した。
「お世話に……」
「なに?」
「お世話になりましたことは、お艶は死んでも忘れません」
「フン! 吐《ぬ》かしおる」
 栄三郎はすでに平静にかえっていた。
 大刀武蔵太郎安国のこじり[#「こじり」に傍点]に帯をさぐって、坤竜と脇差と番《つがい》にスッポリと落とし差したかれは、刀の重みを受けて刀にゆるむ帯を軽くゆすりあげたのち、ちょっと大小の据わりをなおして、ゆらりと土間におり立った。
 片手に浪人笠。
 履物を突っかける……と、ブラリそのまま格子戸をくぐり出ようとした。
「あなたッ! 栄三郎様ッ」
 お艶の声が必死に追いかける。が、彼は振りむきもせずに、
「達者《たっしゃ》に――」
「え? もう一度お顔をッ!」
 悲涙にむせんだお艶、前を乱した白い膝がしらに畳をきざんで、両手を空に上り框《がまち》までよろめき出ると、
「えいッ! 達者に暮らせ!」
 一声……ピシャリ! 格子がしまって、男の姿
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