なろうも知れぬ不穏なたたずまい……。
間《ま》。
お艶はちょいと襟あしを抜いてその手の爪を噛みながら、なかばひとりごとのようにしんみりといいだした。
「いくらわたしがばかだからって茶屋女|風情《ふぜい》がこうしてあなたというおりっぱなお武家の、奥様で候《そうろう》の、奥方でござりますのと、まあ、言っていられるだけで見つけものだってことは、これでもお艶はよウく知っているつもりでございますよ。でもね、人間てものは、どうやらこうやらお飯《まんま》がいただけて、それできょう日《び》がすごしていけりゃあア、それでいいってもんじゃありませんからね。あたしだって小綺麗な着物の一枚や二枚、世間の女なみにたまには着てみたいと思うこともありますのさ」
また始まった!――というように、栄三郎は顔をしかめて、思わず白い眼に棘《とげ》を含ませて部屋じゅうを睨《ね》めまわした。
なんと変わり果てたお艶であろう。
あれほど手まめだったお艶が、ちかごろでは針いっぽん、ほうき一つ手にしたことがなく、栄三郎も彼女も着ている物といえばほころびだらけ、汚点《しみ》だらけ……そのうち、一間しかないこの座敷の隅ずみに、埃がうずたかく積もって、ぬぎ捨てた更《か》え着がはげちょろけの紅《もみ》裏を見せてひっくり返っているかと思うと、そばには昼夜帯《はらあわせ》がふてぶてしいとぐろを巻いているという態《てい》たらく。
まるで宿場女郎をぬいてきて嬶《かか》ア大明神にすえたよう――。
そればかりではない。態度口振りからいうことまで、ガラリと自堕落《じだらく》にかわったお艶であった。
こうではなかった。すこし以前までこうではなかった。と考えるにつけ、栄三郎は、何がかくまでお艶を変えたのか? その理由と動機《きっかけ》を思い惑《まど》うよりも、もうかれは、日常の瑣事《さじ》に何かと気に入らないことのみ多く、つい眼に角《かど》をたててしまうのだった。
そのために、いまも昔も変りのない、犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。
先刻、塗りのはげたお膳を中に、ふたりが朝飯にかかった時だった。
なんぼなんでも、他にしようもあろうに、はぶけるだけ手をはぶいた、名ばかりの味噌汁《みそしる》と沢庵《たくあん》のしっぽのお菜を栄三郎が、あんまりうまそうに口へ運ばなかったからと言って、例によって、お艶がまず、待っていたように火ぶたを切ったのだ。
「まあ! まずいッたらしいお顔! なんでそんなお顔をなさるの?」
「…………」
「あたしのこしらえた物が、そんなに汚いんですかッ!」
「ま、お前、何もそう――」
「いいえ! こう申しちゃ[#「いいえ! こう申しちゃ」は底本では「いいえ!こう申しちゃ」]なんですが、そりゃあお金さえあればねえ、あたしだってもうすこしなんとかできますけれど……フン! だ」
これから起こったことだった。
栄三郎は、横を向いてほかのことに紛《まぎ》らそうとした。
「泰軒どのもひさしくお見えにならぬが、どうしておらるるかな。この寒ぞらに船住いもなかなかであろう」
と、さむ空……という言葉に初めて気がついたように、急にブルルと身ぶるいをして、消えかかった火鉢の火に炭をつごうとした。
「あなた!」
お艶の声は、底にいまも噴《ふ》き出しそうな何ものかを含んで、懸命におさえていた。
「あなたッ!」
「なんだ?」
栄三郎の手に、炭をはさんだ火箸《ひばし》がそのまま宙にとまる。
「なんだ、そんな顔をして」
ジロリと白い一瞥《いちべつ》を栄三郎へ投げて、お艶はしばらく黙っていたが、
「そんな顔こんな顔って、これがあたしの顔なんですもの、今さらどう張りかえようたって無理じゃアありませんか」
「なに?」
「いいえね、万事あの根津のお嬢さんのようにはいきませんてことさ」
「お艶、お前、何を言うんだ?」
「馬子《まご》にも衣装《いしょう》髪かたちッてね――それゃアあたしだってピラシャラすれば、これでちったあ見なおすでしょうよ。けど、お金ですよ。それにゃア……お、か、ね! わかりましたか」
「ばかな! お前はこのごろどうかしている」
栄三郎は取りあおうともせずにしずかに炭のすわりをなおしだしたが、内心の激情はどうすることもできないらしく、火箸のさきがブルブルとふるえて、立てるそばから炭をくずした。
ふたりとも蒼い顔。紙のように白いくちびる――。
あくまでもこの喧嘩、売らずにはおかないといったように、お艶が突如いきおいこんで乗り出すと、膝頭が膝にぶつかって、番茶の茶碗が思いきりよく倒れた。
むッ! とした栄三郎、
「ナ、何をするんだ!」
「なんだいこんなもの!」
お艶はもう一度、膳の角をつかんで荒々しくゆすぶった。瀬戸物がかち[#「かち」に傍点]合って
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