れても俺の知ったことではない」
と、あとのほうはどうやら弁解のようにモゾモゾ口のなかでつぶやいて源十郎、部屋へはいろうとしたが、考えてみると、もっとふしぎに耐えないのは、あれよというどたん場《ば》に際して、あの櫛まきお藤が飛び出したことである。
ふうむ! お藤か……。
味わうようにこの一語を噛みしめたとたんに、源十郎にはすべての経路が見えすいたような気がして、彼は柱にもたれてクルリと背をめぐらしながら、身をずらしてくすりとほほえんだ。と思うと、わっはっはッ! と大きな笑い声が、腹の底から揺りあげてきて、
「お藤か。あッははは、お藤の仕事か――」
と、はてしもなく興に乗じていたが。
やがて。
「おさよ……おさよどの……!」
声をかけて座敷のなかをのぞきこんだとき、そこに老婆のすがたのないのを発見すると、源十郎、ふッと笑いやんで、聞き耳をたてた。
木々を吹きわたる夕風の音ばかり――逢魔《おうま》が刻《とき》のしずけさは深夜よりも骨身にしみる。
チラチラチラと闇黒に白い物の舞っているのは、さては降雪《ゆき》になったとみえる。
源十郎は、急に思い出したことがあって、そそくさと庭におり立った。
さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
雪が、頬を打って消える。
椎《しい》の木。そのかげに朽ち果てた薪小屋。
樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の工面《くめん》に、はたといきづまっていたのだった。
五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
煩悩《ぼんのう》は人を外道《げどう》に駆《か》る。
ひとつ――殺《や》るかな……。
と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに土生《はぶ》仙之助の鼻唄が聞こえていた。
江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。
ふたつの涙《なみだ》
「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
お艶はちょっと口をへの字に曲げて憎《にく》さげに栄三郎を見やった。
不貞腐《ふてくさ》れの横すわり――
紅味を帯びたすべっこい踵《かかと》が二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
どんよりと曇った冬の日だ。
いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の桟《さん》のあいだから見える……もの皆が貧しくてうす汚《きたな》い瓦町の露地の奥。と、突然、となりの左官の家で山の神のがなり立てる声が起こった。
「なんだい、この餓鬼《がき》アッ! またこんなところに灰をまきゃアがって! ほんとに、ほんとに性懲《しょうこ》りのねえ野郎だよ。父《ちゃん》にそっくりだッ!」
つづいて、ピシャリ! と頭でもくらわすらしい音。わアッ! と張りあげる子供の泣き声――ピシャピシャピシャとおかみの平手は、自暴《やけ》に子供の頬へ飛んでゆくようすである。
なんという暗い、ジメジメした世の中であろう!……若い栄三郎のこころは、その悩ましい重みに耐えられない気がしてきて、無理にも作った和《なご》やかな笑顔を、かれはお艶へむけた。
「ぱっとしない天気だな。雨……いや、雪になろうも知れぬ。お前、頭痛はどうだ?」
お艶が、ふん! とそっぽを向くと、こめかみに貼った頭痛|膏《こう》が、これ見よがしに栄三郎の眼にはいる。
かれは再び、にがにがしく眉を寄せた。
ぽつん――と、不自然に切れた静寂のなかに、険悪な気がふたりを押し包んでいる。
まことに雨、雪、いや、暴風雨にも
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