心子知らずとはよくいったもので、なんですか、このごろ悪い虫がつきましてねえ」
「浮気か」
「泣かされますでございますよ」
「なんだ、相手は」
「どこかお旗本の御次男だとか――」
「よいではないか。他人まかせの養子というやつには、末へいって困却《こんきゃく》する例がままある。当人同士が好きなら、それが何よりだ。お前もせいぜい焚きつけて後日左|団扇《うちわ》になおる工面をしたがよい。おれが一つまとめてやろうか、はははは」
「まあ、殿様のおさばけ方――でも、どうもおうちの首尾がおもしろくございませんでねえ」
つ[#「つ」に傍点]と、源十郎は聞き耳を立てた。
びょうびょう[#「びょうびょう」に傍点]と吠える犬の声に追われて、夜霧を踏む跫音が忍んで来たかと思うと、
しッ! しッ!
と庭に犬を叱る低声《こごえ》とともに、コトコトコトと秘めやかに雨戸が鳴って、
「おい! 源十、鈴源《すずげん》、俺だ……おれだよ。あけてくれ」
――帰って来たな、とわかると、源十郎の眉が開いて、あちらへ行っておれと顎でおさよを立ち去らせるが早いか、しめたばかりの戸をまたあける。
夜妖《やよう》の一つのように、丹下左膳が音もなくすべりこんだ。
「おそかったな。今ごろまでどこへ行っていた?」
それには答えず、左膳は用心深く室内をうかがって、
「連中は?」
「今帰ったところだ」
左膳は先に立って行燈《あんどん》の光のなかへはいって行ったが、続いた源十郎はちょっとどきり[#「どきり」に傍点]とした。
左膳の風体《ふうてい》である。
巷《ちまた》の埃りに汚れているのは例のことながら、今夜はまたどうしたというのだ! 乱髪が額をおおい、片袖取れた黒七子《くろななこ》の裾から襟下へかけて、スウッと一線、返り血らしい跡がはね上がっている。隻眼《せきがん》隻腕《せきわん》、見上げるように高くて痩せさらばえた丹下左膳。猫背のまま源十郎を見すえて、顔の刀痕が、引っつるように笑う。
「すわれ!」
源十郎は、夜寒にぞっとして丹前を引きよせながら、
「殺《や》って来たな誰かを」
「いや、少々暴れた。あははははは」
「いいかげん殺生《せっしょう》はよしたがよいぞ」
こう忠言めかしていった源十郎は、そのとき、胡坐《あぐら》になりながら左膳が帯からとった太刀へ、ふと好奇な眼を向けて、
「なんだそれは? 陣太刀ではないか」
すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
太い濁声《だみごえ》を一つずつしゃくりあげる。
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい功徳《くどく》になるわ。もっともあの女、貴様のような男に、どこがよくて惚れたのか知らんが、一通り男を食い散らすと、かえって貴様みたいな人《にん》三|化《ばけ》七がありがたくなるものと見えるな。不敵な女じゃが、貴様のこととなるとからきし意気地がなくなって、まるで小娘、いやもう、見ていて不憫《ふびん》だよ。貴様もすこしは冥加《みょうが》に思うがいい」
源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「四更《しこう》、傾月《けいげつ》に影を踏んで帰る。風流なようだが、露にぬれた。もうそんな話あ聞きたくもねえや。だがな鈴源、俺が貴様ん所に厄介になってから、これで何月になるかなあ?」
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半|歳《とし》にはなろう」
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
前かがみに突然陣太刀作りの乾雲丸《けんうんまる》を突き出した左膳。
「さ、此刀《これ》だ! 話の緒《いとぐち》というのは」
と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い暁闇《ぎょうあん》が部屋の四隅へ退く。が、障子越しの廊下にたたずんでいる人影には、二人とも気がつかなかった。
左膳の言葉。
この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》殿の家臣が、主君の秘命をおびて府内へ潜入している仮りの相《すがた》であった。
で、その用向きとは?
れっき[#「れっき」に傍点]とした藩士が、なぜ身
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