つっ張ったまま、頤《あご》を引いて、帰って行く人を見上げている。紅い布が半開の牡丹のように畳にこぼれて、油を吸った黄楊《つげ》の櫛が、貝細工のような耳のうしろに悩ましく光っている風情《ふぜい》、散りそめた姥桜にかっ[#「かっ」に傍点]と夕映えが照りつけたようで、熟《う》れ切った女のうまみが、はだけた胸元にのぞく膚の色からも、黒襟かけた糸織のなで肩からも、甘いにおいとなって源十郎の鼻をくすぐる。
この女はこれでおたずね者なのだ――こう思うと源十郎は、自分が絵草紙の世界にでも生きているような気がした。
「姐御、皆さんお帰りです。お供しやしょう」与吉にうながされて、ひとり残っていたお藤は、片手をうしろに膝を立てた。
「そうだねえ。実《じつ》のない人はいつまで待っていたってしようがない。じゃ、お神輿《みこし》をあげるとしようか。お殿様おやかましゅうございました。おやすみなさい」
「うむ帰るか」
と源十郎は横になったまんまだ。
食べ荒らした皿小鉢や、倒れた徳利に蒼白い光がさして、畳の目が読める。
軒低く、水のような月のおもてに雁《かり》がななめに列《つら》なっていた。
与吉がお藤を送って、浅草の家へ帰って行くと、しばらくして、寝ころんでいた源十郎が、むくり[#「むくり」に傍点]と起き上がっておさよを呼んだ。
「はいはい」
と出てきたおさよ婆さん、いつのまにか客が帰ってがらん[#「がらん」に傍点]としているのにびっくりして、
「おやまあ、皆さまお帰りでござんしたか。ちっとも存じませんで――ここはすぐに片づけますけれど、あのお居間のほうへお床をとっておきましたから」
「まあ、いい、それより、戸締りをしてくれ」
縁の戸袋から雨戸をくり出しかけたおさよの手が、思わず途中で休んでしまう。
藍絵《あいえ》のような月光。
近いところは物の影がくっきり[#「くっきり」に傍点]と地を這って、中《なか》の郷《ごう》のあたり、甍《いらか》が鱗《うろこ》形に重なった向うに、書割《かきわり》のような妙見《みょうけん》の森が淡い夜霧にぼけて見える。どこかで月夜|鴉《がらす》のうかれる声。
おさよは源十郎をふりかえった。
「殿様、いい月でございますねえ」
すると源十郎。
「おれは月は大嫌いだ」
と、はねつけるよう。
「まあ、月がお嫌い――さようでございますか。ですけれど、なぜ……でござんしょう?」
「なぜでも嫌いだ。月を見るとものを思う。人間ものを思えば苦しくもなる。そのため――かも知れぬな」
「お別れになった奥様のことでも思い出して、おさびしくなるのでございましょうよ」
「ふふふ、そうかも知れぬ。ま、早くしめるがいい」
すっかり戸締りができると、源十郎はまた寝そべって、
「さよ、ここへ来て、ちょっと肩へつかまってくれ」
按摩を、と言う。
おさよは襷《たすき》のまま座敷へはいって、源十郎の肩腰を揉《も》み出した。
「もう何刻《なんとき》かな?」
「つい今し方|回向院《えこういん》の八つが鳴るのを聞きました」
「そうか。道理で眠いと思った。あああああ!」
大欠伸《おおあくび》をしながら、
「貴様、年寄りだけあって眠がらんな。身体が達者とみえる」
「ええええ、そりゃもういたって丈夫なほうで、その上、年をとるにつれて、なかなか夜眼が合わなくなりますのでございますよ。ですから、これから寝《やす》ませていただいてもお天道さまより先に起きてしまいます」
「だいぶ凝《こ》ってるようだ。うん、そこを一つ強く頼む――貴様、何か、子供はないのか」
「ございます、ひとり」
「男か女か」
「女でございます」
「女か――それでも、楽しみは楽しみだな」
「なんの、殿様、これがもし男の子でしたら、伝手《つて》を求めてまた主取《しゅど》りをさせるという先の望みもございましょうが、女ではねえ……それに――」
「主取りと申すと、貴様武家出か」
「はい。お恥ずかしゅうございます」
「ほほう。それは初耳だな。して藩はどこだ?」
「殿様、そればかりはおゆるしを。こうおちぶれてお主《しゅ》のお名を出しますことは――」
「それはそうだ。これはおれが心なかったな。しかし、さしずめ永の浪々のうちに配合《つれあい》をなくして、今の境涯に落ちたという仔細《しさい》だろう?」
「お察しのとおりでございます」
「それで、その娘というのはいかがいたした?」
「宿元へ残して参りましたが、それが殿様、ほんとに困り者なんでございますよ」
「どうしてだ?」
「いえね。まあ、この婆あとしては、幸い資本《もとで》を見てやろうとおっしゃってくださる方もありますから、しかるべき、と申したところで身分相当のところから婿《むこ》を迎えて、細くとも何か堅気な商売でも出さしてやりたいと思っているのでございますが、親の
前へ
次へ
全190ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング