初めて……」
「弥生様。道場には先生の御遺骸もありますぞ」
「ええ……この部屋で、父はどんなに嬉しそうににっこりしてあの貼り紙を書きましたことか――」
「――それも、余儀ありませぬ」
「栄三郎さまッ! あ、あんまりですッ!」
わッ! と弥生が泣き伏した時、廊下を踏み鳴らしてくる多門の跫音《あしおと》がした。
おののく白い項《うなじ》をひややかに見やって栄三郎は坤竜丸を取りあげた。
「では、この刀は私がお預かりいたします。竜は雲を招き、雲は竜を待つ、江戸広しといえども、近いうちに坤竜丸と丹下の首をお眼にかけましょう――」
こうして、戦国の昔を思わせる陣太刀作《じんだちづく》りの脇差が、普通の黒鞘《くろざや》武蔵太郎安国と奇妙な一対をなして、この夜から諏訪栄三郎の腰間《こし》に納まることとなった。
化物屋敷《ばけものやしき》
うすあばたの顔に切れの長い眼をとろんとさせて、倒した脇息《きょうそく》を枕に、鈴川源十郎はほろ酔いに寝ころんでいる。
年齢は三十七、八。五百石の殿様だが、道楽旗本だから髪も大髻《おおたぶさ》ではなく、小髷《こまげ》で、鬢《びん》がうすいので、ちょっと見ると、八丁堀に地面をもらって裕福に暮らしている、町奉行支配の与力《よりき》に似ているところから、旗本仲間でも源十郎を与力と綽名《あだな》していた。
父は鈴川宇右衛門といって大御番組頭《おおおばんくみがしら》だったが、源十郎の代になって小普請《こぶしん》に落ちている。去水流居合《きょすいりゅういあい》の達人。書も相応に読んだはずなのが、泰平無事の世に身を持てあましてか、このごろではすっかり市井《しせい》の蕩児《とうじ》になりきっている――伸ばした足先が拍子をとって動いているのは、口三味線《くちじゃみせん》で小唄でも歌っているらしく、源十郎は陶然として心地よさそうである。
秋の夜なが。
本所《ほんじょ》法恩寺《ほうおんじ》まえの鈴川の屋敷に常連が集まってお勘定と称してひとしきりいたずら[#「いたずら」に傍点]が盛ったあとは、こうして先刻からにわか酒宴がはじまって、一人きりの召使おさよ婆さんが、一升徳利をそのまま燗《かん》をして持ち出すやら、台所をさらえて食えそうな物ならなんでも運びこむやら、てんてこまいをしている騒ぎ。
「なんだ、鈴川、新しい婆《ばば》あが来ておるではないか」
土生《はぶ》仙之助が珍しそうにおさよを見送って言う。
「うむ。前のは使いが荒いとこぼして暇を取っていった。あれは田原町《たわらちょう》三丁目の家主《やぬし》喜左衛門《きざえもん》と鍛冶屋富五郎《かじやとみごろう》鍛冶富《かじとみ》というのを請人《うけにん》にして雇い入れたのだ。よく働く。眼をかけてやってくれ。どうも下女は婆あに限るようだて。当節の若いのはいかん」
「へっへっへっへっ」隅《すみ》で頓狂《とんきょう》に笑い出したのは、駒形《こまがた》の遊び人与吉だ。
「ヘヘヘ、使いが荒いなんて、殿様、なんでげしょう、ちょいとお手をお出しなすったんで……こう申しちゃなんですけれど、こちらの旦那と来た日にゃ悪食《あくじき》だからね」源十郎は苦笑して、生き残った蛾が行燈に慕いよるのを眺めている。
本所の化物屋敷と呼ばれるこの家[#「この家」に傍点]に今宵とぐろをまいている連中は、元小《もとこ》十人、身性が悪いので誘い小普請入りをいいつかっている土生仙之助を筆頭に、いずれも化物に近い変り種ばかりで、仙之助は、着流しのうしろへ脇差だけを申しわけにちょいと横ちょに突き差して肩さきに弥蔵《やぞう》を立てていようという人物。それに本所きっての悪御家人旗本が十人ばかりと、つづみの与吉などという大一座に、年増《としま》ざかりの仇っぽい女がひとり、おんなだてらに胡坐《あぐら》をかいて、貧乏徳利を手もとにもうだいぶ眼がすわっている。
「お藤《ふじ》、更けて待つ身は――と来るか、察するぞ」
誰かがどなるように声をかけるのを、櫛《くし》まきお藤はあでやかに笑い返して、またしても白い手が酒へのびる。
「なんとか言ってるよ……主《ぬし》に何とぞつげの櫛、どこを放っつきまわってるんだろうねえ、あの人は。ほんとにじれったいったらありゃしない」
「手放し恐れ入るな。しかしお藤、貴様もしっかりしろよ。あいつ近ごろしけ[#「しけ」に傍点]こむ穴ができたらしいから――」
「あれさ、どこに?」
「いけねえ、いけねえ」与吉があわてて両手を振った。
「そう水を向けちゃあいけませんやあねえ。姐御《あねご》、姐御は苦労人だ。辛気《しんき》臭くちゃ酒がまずいや、ねえ?」
どッ! と浪のような笑いに座がくずれて、それを機に、一人ふたり帰る者も出てくる。
櫛まきお藤は、美しい顔を酒にほてらせて、男のように胡坐の膝へ両手を
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