づいた。
山雨《さんう》まさに到らんとして、風《かぜ》楼《ろう》に満つ。
左膳は、
何ごとか戸外にあわただしいようすを感じて、そっと離室を忍び出た拍子に、ちらと垣根のむこうに動く捕吏《とりて》の白|襷《だすき》を見つけたので、そのまま、塀からそとの往来に突き出ている欅《けやき》の大木に猿のごとくスルスルとよじのぼって下をうかがうと……。
陽にきらめいて寄せて来る十手の浪。
地をなでて近づく御用の風。
さてはッ! 逆袈裟《ぎゃくけさ》がけ辻斬りの一件がばれたなッ! と思うより早く、剣鬼左膳のあたまを掠《かす》めたのは、そも何者が訴人《そにん》をしてかくも捕り手のむれをさしむけたのか?――という疑惑《ぎわく》とふしぎ感だったが、そんな穿鑿《せんさく》よりも刻下《いま》は身をもってこの縦横無尽に張り渡された捕縄《ほじょう》の網を切り破るのが第一、と気がつくと同時に長身の左膳、もう塀外へ降りても途《みち》はないから、左手に老幹《ろうかん》を抱いて庭にずり[#「ずり」に傍点]落ちざま、ただちに、源十郎がおさよと差し向いでいるこの座敷のそとへ飛んで来たのだった。
刀痕《とうこん》の深い左膳の蒼顔《そうがん》、はや生き血の香をかぐもののごとく、ニッと白い歯を見せた。
「来たぞ源的!」
「上役人か。斬るのもいいが。あとが厄介《やっかい》だ」
「と言って、やむを得ん」
「うむ、やむを得ん」
いう間も、多数の足音が四辺に迫って、剣妖《けんよう》左膳、パッと片肌ぬぐが早いか、側の女物の下着が色彩《いろ》あざやかに、左指にプッツリ! 魔刀乾雲ではないが鯉口押しひろげた。
と!
背後の樹間の人の姿が動いたと見るや、ピュウ……ッ!
と空をきって飛来した手練の鉤縄《かぎなわ》、生《せい》あるもののように競《きそ》い立って、あわや左膳の頸へ! 触れたもほんの一瞬、銀流《ぎんりゅう》ななめに跳ねあがって小蛇とまつわる縄を中断したかと思うと、縄は低宙を突んざいていたずらに長く浪をうった。
同時に。
はずみをくらった投げ手が、なわ尻を取ったまま二足三あし、ひかれるようにのめり出てくる……ところを!
電落した左膳の長剣に、ガジッ! と声あり、そぎとられた頭骸骨《ずがいこつ》の一片が、転々と地をはった。脳漿《のうしょう》草に散って、まるで髻《たぶさ》をつけたお椀を抛《ほう》り出しでもしたよう――。
サッ! としたたか返り血を浴びた左膳、
「ペッ! ベラ棒に臭えや」
と、左手の甲で口辺をぬぐった時、
「神妙にいたせッ!」
大喝、おなじく捕役のひとり、土を蹴って躍りかかると、刹那《せつな》に腰をおとした左膳は、
「こ、こいつもかッ!」
一声呻いたのが気合い、転じてその深胴《ふかどう》へザクッ! と刃を入れた。
――と見るより、再転した左膳、おりから、横あいに明閃《めいせん》した十手の主《ぬし》へ、あっというまに諸《もろ》手づきの早業、刀身の半ばまで胸板に埋めておいて、片脚あげて抜き倒すとともに、三転――四転、また五転、剣体一個に化して怪刃のおもむくところ血けむりこれに従い、ここに剣妖丹下左膳、白日下の独擅場《どくせんじょう》に武技入神の域を展開しはじめた。
が、寄せ手の数は多い。
蟻群の甘きにつくがごとく、投網《とあみ》の口をしめるように、手に手に銀磨き自慢の十手をひらめかして、詰《つめ》るかと見れば浮き立ち、退《しりぞ》くと思わせてつけ入り……朱総《しゅぶさ》紫総《しぶさ》を季《とき》ならぬ花と咲かせて。
「うぬウッ!」
と左膳は、動発自在の下段につけて、隻眼を八方にくばるばかり……重囲脱出《じゅういだっしゅつ》の道を求めているのだ。
暮れをいそぐ冬の陽脚。
そして、夕月。
樹も家も人の顔も、ただ血のように赤い夕映えの一刻に、うすれゆく日光にまじって、月はまだひかりを添えていなかった。
刃火のほのおと燃えて天に冲《ちゅう》するところ、なんの鳥か、一羽寒ざむと鳴いて屋根を離れた。
縁側に立って、うっとりこの力戦を眺めている源十郎は、剣香《けんこう》に酔って抜くことも忘れたものか――いわんや、おさよ婆さんなぜか足音をぬすんで、とうの昔にその座敷をまぎれ出ていたことには、かれはすこしも気がつかなかった。
上役人に刃向かって左膳を救い出すか……それとも、友を見棄てておのれの安穏《あんのん》を全うすべきか?
この二途に迷いながら、ひとつにはただぼんやりと、いま庭前に繰りひろげられてゆく剣豪決死の血の絵巻物に見とれている源十郎。
かれは片手に大刀をさげ、片手で縁の柱をなでて左膳の剣が捕吏《とりて》の新血に染まるごとに、
「ひとウつ! ふたアツ! それッ! 三つだ! 三つだアッ! ほい! 四つッ!」と源十郎、子供が、木から
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