ちゃくしごく》……なァんかんと来た時にあ、テヘヘ、あっしぁ眼がくらくらッとしたね、じっさい」
「まあさ、殿様のおっしゃることにぁ、おさよさんが死んだ母御によく似ているから、ほんとの母と思って孝行をつくしている――てんだがわしぁどうも気のせいか、ちっとべえ臭えと思う」
「くせえ? とは何がさ?」
「なにか底にからくりがあるんじゃあねえかと――いや、これあ取り越し苦労だろうが、富さんの前だが年寄りはいつも先の先まで見えるような心もちして、心配が絶えませんよ。損な役さね」
「だけど、おさよ婆さんにしたところで、ほかにちゃあんとした因縁《わけ》がなくちゃあ、死んだ殿様のお袋《ふくろ》に似てるぐれえなことで、ああいい気に奉られている道理はねえ。ここはなるほど、喜左衛門どんのいうとおり、何か曰《いわ》くがあるのかも知れねえ」
「殿様ってお方がまともじゃねえからね」
「くわせものでさあね。あの侍《さんぴん》は」
ヒソヒソささやきながら屋敷を出て、法恩寺橋の通りへかかろうとすると、片側は鈴川の塀、それに向かって一面の畑。
頃しも冬の最中だから眼にはいる青い物の影もなく、見渡すかぎりの土のうねり……ところどころの積《つ》み藁《わら》に水底のような冷えた陽がうっすらと照った。立ちぐされの案山子《かかし》に烏が群れさわいでいるけしき――蕭条《しょうじょう》として襟《えり》寒い。
はるかむこうに草葺き屋根の百姓家が一軒二軒……。
どこかで人を呼んでいる声がする。
風。
「オオ寒《さむ》!」
思わず二人いっしょに口にだして、喜左衛門と鍛冶富、小走りに足を早めようとすると! 畑のまえの路ばたに道祖神《どうそじん》の石がある。
そのかげから、突如、躍り出た二、三人の人! はッとして見ると鎖《くさり》入りの鉢巻に白木綿の手襷《てだすき》、足ごしらえも厳重な捕物の役人ではないか。
それがばらばらッととりまいて中のひとり、
「お前たちは今そこの鈴川の屋敷から出て参ったな?」
と詰《つ》めよられて、おどろきあわてつつも、口きき大家と言われるだけあって、喜左衛門はすぐに平静に返ってはっきり[#「はっきり」に傍点]と応対する。
「はい、わたくしは浅草田原町三丁目の家主喜左衛門と申す者、またこれなるは三間町の鍛冶屋富五郎といいまして、この鈴川様のお屋敷へ下女をお世話申しあげましたについて――」
「どうもあんまりお屋敷の評判がよくねえから」と鍛冶富も口を添え、「きょう貰《もら》いさげにでましたところが、その婆あさんがこう高え所にかまえて、おお両人とも壮健にて重畳《ちょうじょう》重畳……」
「これ、何を申す!」
叱りつけておいて、役人達は二こと三こと相談したのち、
「いや、ほかでもないが、ただいま、浅草橋の番所へ女手の書状を投げこんだ者があって、その文面によると、ひさしくお上《かみ》において御|探索《たんさく》中であったかの逆袈裟《ぎゃくけさ》がけ辻斬りの下手人が当屋敷に潜伏《せんぷく》いたしおるとのことであるが、お前ら屋敷内にさよう胡乱《うろん》な者をみとめはしなかったか」
いいえ!――とふたりが力をこめて首を振ると、べつに引きとめておくほどのものどもでもないとみてか、
「よし、いけ、足をとめて気の毒だったな」
と許された喜左衛門と富五郎、にげるように先を争って駈け出したが……。
こわいもの見たさに。
塀の曲り角からのぞいてみると、
同じしたくのお捕り役が二、三人ずつ、もうぐるりと手がまわったらしく、屋敷をめぐって樹のかげ、地物の凹《くぼ》みにぴったりと伏さっている――その数およそ二、三十人。
「えらいことになったな」
「だから先刻、婆あさんの手でも取ってしゃにむに引っぱり出せあよかった」
いいながらなおもうかがっていると、捕り手はパッと片手をかざしあって合図をした。と見るや、ツウと地をはうようにたちまち正門裏門をさして寄ってゆく。
が、喜左衛門、富五郎をはじめ、役人のうち誰も、さきほどから、鈴川方の塀の上に張り出ている欅《けやき》の大木の梢《こずえ》、その枝のしげみに、毒蛇のような一眼がきらめいて、その始終《しじゅう》を見おろしていたことを知らなかった。
明るい陽をうけた障子に、チチと鳥影が動くのを、源十郎はしばらくボンヤリと眺めていた。
うすら寒い静寂《しずけさ》である。
おさよのおさまりように胆をつぶし、狐《きつね》につままれたような心持で、家主喜左衛門と鍛冶富が帰っていったあとの、化物屋敷の奥の一間。
源十郎は、何か物思いに沈みながら、体《からだ》についたごみの一つ一つをつかんでいると、おさよの茶をすする音が、その瞬間の部屋を占めた。
「さて、おさよどの」と源十郎は、思いきったように、しおらしく膝を進めて、「今もかの町人
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