源十郎、実の母にでも対するように慇懃《いんぎん》にとめて、
「まま、そのままに、そのままに。なに、出入りの商人であろう。拙者が出る」
 と懐手《ふところで》、のっそりと台所に来てみると、水口の腰高障子《こしだか》から二つの顔がのぞいている。
 あさくさ田原町三丁目の家主喜左衛門と三間町の鍛冶富――おさよの請人《うけにん》がふたりそろってまかり出て来たので源十郎、さては悪い噂でも聞きこんだな、内心もうおもしろくない。
「なんだ? おさよ殿に何か用かな?」
 押っかぶせるように仁王立ちのまんまだ。
 おさよどの! と殿様の口から! 聞いて胆《きも》をつぶした喜左衛門に鍛冶富、すくなからず気味がわるい。
 挨拶もそこそこに、源十郎の顔いろをうかがいながら、お屋敷のごつごうさえよろしければ、ちと手前どものほうにわけがあって、一時おさよ婆あさんを引き取りたいと思うから、きょうにでもおさげ願いたく、こうして引請人《ひきうけにん》が頭を並べてお伺いした……と!
 源十郎、眉をつりあげて威猛高《いたけだか》だ。
「なにィ! ちと理由《わけ》があっておさよどのをもらいさげに参った? これこれ、喜左衛門に富五郎と申したな」
「へえへえ、鍛冶屋富五郎、かじ[#「かじ」に傍点]富てんで」
「なんでもよい。両人とも前へ出ろ。申し聞かせるすじがある」
 言い捨てて源十郎、スタスタ奥へはいっていったから、はて! 何事が始まるのだろう? と二人ともおっかなびっくりでしりごみしているところへ、ただちにとってかえした源十郎を見ると、刀をとりに行ったものであろう左手に長い刀を下緒《さげお》といっしょに引っつかんで、その面相|羅刹《らせつ》のごとく、どうも事態《じたい》がおだやかでない。
 何がなんだかいっこうに合点《がてん》がいかないものの喜左衛門と鍛冶富は今にも逃げ出しそうだ。
 そこへ源十郎の怒声。
「こらッ、もちっと前へ出ろ! 出ろッ! ウヌ! 出ろと申すにッ!」
 と与力の鈴源だけあって、声にもっともらしい渋味《しぶみ》がこもり、おどしが板についていて、町人づらをふるえあがらすには充分である。
「はい。出ます、出ます。こうでございますか」
 ふたりがびくびくもので、一、二寸前へ刻み出たとき、源十郎は、大刀に鍔《つば》鳴りを[#「鍔《つば》鳴りを」は底本では「鎧《つば》鳴りを」]させて叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》した。
「何者かが当屋敷に関してよけいなことを申したのを、市井匹夫《しせいひっぷ》の浅はかさに真《ま》にうけたものであろう。どうじゃ?」
「へ?」
 ときき返したが、両人ともよくわからないので、モジモジ黙っていると、源十郎は続けて、
「おさよ殿を従前どおりおれの手もとにおいたとて、貴様らに迷惑の相かかるようなことはいたさぬ。源十郎、不肖《ふしょう》なりといえども、年長者の敬すべきは存じておる。いま貴様らに見せるものがあるから庭先へまわれッ!」
 ホッとして喜左衛門と富五郎、うら口を離れてひだりを見ると、中庭へ通ずる折り戸がある。それを押して、おそるおそる奥座敷の縁下、沓脱《くつぬぎ》のまえにうずくまると、
「両人! 面《おもて》をあげい! おさよ殿じゃ」
 という源十郎の声に、おさよがあとをとって、
「おや。喜左衛門さんに富五郎どんかえ。ひさしく御無沙汰《ごぶさた》をしましたが、おふたりともいつもお達者で何よりですねえ、はい……」
 はてな! と顔をあげてよく見ると、奉公にあがったはずのおさよ婆さんが、これはまたなんとしたことか、殿様の御母堂然と上品ぶって、ふっくら[#「ふっくら」に傍点]としたしとね[#「しとね」に傍点]の上から淑《しと》やかに見おろしている。
 眼どおり許す――といわんばかり。
 プッ! と吹きだしそうになるのを、喜左衛門と鍛冶富、互いにそっと肘《ひじ》で小突きあってこらえているうちに、かたわらの源十郎が威儀《いぎ》をただして、しんみり[#「しんみり」に傍点]とこんなことを言い出した。
「他人の空似《そらに》とはよく申したものでおさよ殿は、死なれた拙者の母御に生き写し……よく瓜を二つに割ったようなというが、これはまた割らんでそのまま並べたも同然――なあ、孝行のしたい時分には親はなし、さればとて石に蒲団も着せられず……こうしておさよどのを眺めていても、源十郎、おなつかしさにどうやら眼のうらがあつくなるようだ」
 と源十郎、芝居めかして、しきりに眼ばたきをしている。

 煙《けむ》にまかれて、喜左衛門と鍛冶富は、ぽかんとしたまま帰ってゆく。
「驚きましたね、喜左衛門どん」
「いや、おどろいたね、富さん」
「一体全体どうしたんでごわしょう? へっへ、まるで女|隠居《いんきょ》。ふたりとも壮健にて祝着至極《しゅう
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