」与吉は悪党らしく小刻みに笑って、「なあにね、ちょっくら芝居《しばい》を打って来ました」
「芝居を!」
「あい」
どっかりとすわった与吉、お藤の差しだす茶碗の冷酒《ひや》をぐっとあおって、さて、上機嫌《じょうきげん》に話しだしたのは……。
左膳の手紙の一件。
あの雨の夜の乱刃に、化物屋敷で斬り殺された者が総計七名、これはすべて泊まり合わせていた博奕《ばくち》仲間で、負傷者は左膳の軽傷以下十指に近かった。
しかも、栄三郎と泰軒には一太刀もくらわさないうちに、あの、得体《えたい》の知れない火事装束の一団が乗りこんできて、これには左膳、源十郎もしばし栄三郎方と力を合わせて当たってみたが、その間に泰軒は屋敷をのがれ出てしまった。
頭《かしら》だった火事装束が刀影をついて放言したことには、彼らもまた夜泣きの一腰、乾雲坤竜の二刀を求めているものだと。
つまりこの一隊の異形《いぎょう》の徒《と》は、左膳の乾雲、栄三郎の坤竜にとって、ともに同じ脅威《きょうい》であった。
そこで剣豪左膳、いま一度左腕に縒《よ》りをかけて、力闘数刻、ようやく明け方におよんだが!
時、左膳に利あらず、火事装束の五人組に稀刀《きとう》乾雲丸を横奪《おうだつ》されて、すぐに塀外へ駈け出てみたときは、すでに五梃の駕籠がいずくともなく消え失せていたあとだったというのだ。
乾雲が持ち去られた。
すると今、奇剣乾雲は左膳の手を離れて、何者ともはっきりしない五梃駕籠の一つにでもひそんでいるのであろう! お藤は白い顔にきっとくちびるをかんだ。
「与《よ》の公《こう》、ほんとうかい、それ」
つづけざまに合点《がてん》合点をした与吉、なおも語をついで、こうして乾雲丸が左膳の手もとにない以上、もういたずらに栄三郎とはりあう要もないと、さてこそ、その旨を書いた左膳の手紙を、こっそり栄三郎へ届ける役を言いつかったつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉、歳の市の雑踏裡《ざっとうり》に栄三郎を見かけてうまく書状を袖からおとしこんだまではいいが……。
「掏摸とまちがえられてえらい目にあいましたよ。光る刀を引っこぬいてどんどん駈けてきましたがね。いや、あぶねえ芸当《げいとう》さ、ははははは」
与吉は事もなげに笑っているが聞いているうちにお藤の目は疑《うたが》わしそうにすわってきた。
もしそれがほんとなら、丹下左膳が自分で栄三郎を訪れて、さらりと和解を申しこみそうなもの。そのほうがまた、どんなにあの人らしいか知れやしない――。
第一、あの丹下様が、あんなに命をかけていた乾雲丸をそうやすやすととられるだろうか?
けれど、ものにはすべて機《はず》みということもある。
丹下左膳といえども魔神ではない……こう考えてくると、お藤は与吉がうそ[#「うそ」に傍点]をついているとも、左膳に欺《だま》されているとも思えないのだった。要するに、何がなんだかわからないお藤。
「そうかい」
とおもしろくもなさそうにつぶやくと、頭痛でもするのか、しきりにこめかみをもみ出した。かと思うと今度は丹念《たんねん》に火鉢の灰をかきならしている。
あたまの中ではいろんな思いがさわがしく駈けめぐっているが、外見《そとみ》はいかにも閑々《かんかん》としてお妾のごとく退屈そうだ。
撫で肩に自棄《やけ》に引っかけた丹前、ほのかに白粉《おしろい》の移っている黒|襟《えり》……片膝立てた肉置《ししおき》もむつちり[#「むつちり」に傍点]と去りかけた女盛りの余香《よこう》をここにとどめている景色――むらさきいろの煙草の輪が、午さがりの陽光のなかをプカリプカリと棚の縁起物《えんぎもの》にからんで。
つづみ[#「つづみ」に傍点]の与の公、この白昼いささかごてりと参って、お藤のようすを斜めに眺めている。
丹下の殿様も気が知れねえ、こんな油の乗りきってる女を振りぬくなんて、と。
吐き出すように、お藤がいう。
「すると何かえ、丹下さまはもうお刀をその火事装束とやらの五人組にとられてしまって、お手もとに持っていないということを文にして、それをお前が、あの方の命令《いいつけ》で栄三郎の袂へ入れて来たと言うんだねえ?」
「へえ。いかにもそのとおり……大骨を折りましたよ」
与吉は、お藤の香が漂ってくるようで、まだぼんやりと夢をみている心地だ。つと癇《かん》走ったお藤、熱く焼けた長煙管《ながぎせる》の雁首《がんくび》を、ちょいと伸ばして与吉の手の甲に当てて、
「しっかりおしよ、与の公! なんだい、ばかみたいな顔をしてさ。夕涼みの糸瓜《へちま》じゃあるまいし」
「あッ! 熱《あ》つつつ――」
とびのいた与吉は、大仰《おおぎょう》に顔をしかめつつ甲をなめて、
「ひでえや姐御。あついじゃありませんか……おお熱《あつ》!」
「ほほ
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