おたずね申すが、この片腕は左腕でござろうの? いや、左腕でなくてはかなわぬところ、どうじゃ」
ときいた忠相のあたまに、電光のようにひらめいたのは、当時府内を震憾《しんかん》させている逆けさがけの辻斬り、その下手人《げしゅにん》も左剣でなければならない一事だった。
で、然り――という意をふくめて驚きながら栄三郎がうなずくのを見ると、忠相は、
「然らばこの一書、貴殿にお返し申すことは相成らぬ」
きっぱり断わって、さっさと懐中へしまいこんでしまった。
無体《むたい》なことを! 刀にかけても奪還せねば! と栄三郎が面色をかえてつめよった時、見ると、相手のつれらしい侍が急ぎ足に近づいてくるので、残念ながらこの曰《いわ》くありげな二人に挟まれて、種々問いただされてはよけいなあやまちを重ねるのみと、栄三郎は倉皇《そうこう》として忠相を離れ、逃げるように露地の奥へ消えていった。
「御前《ごぜん》、こんな所にいらっしゃろうとは存じませぬゆえ、ほうぼうおさがし申しましてござります」
という声に、忠相がふり向くと与吉を追っていった伊吹大作である。
多勢とともに追跡してみたが、なにしろあの人出、一度は旅|合羽《がっぱ》へ手をかけたもののスルリと抜けられて、ついそこの通りでとうとう与吉の影を見失ったという。
「面目《めんぼく》次第もござりませぬ、いやはや掏摸をはたらこうというだけあって、なんと身軽なやつで」
「掏摸? 誰が掏摸じゃ?」
「は? あの男――」
「あれは掏摸ではない」
「すると巾着切《きんちゃくき》りで? それともちぼ……」
「たわけめ。同じではないか」
「恐れ入りましてござります」
「なあ大作。他人の懐中物《かいちゅうもの》を機をもって掠《かす》めとるを掏摸と申す」
「は」
「機によって人の袂に物品を投ずる――こりゃすりではあるまい。きゃつはある者の依頼を受けて、あの人の袂に封書を投げ入れたのじゃ。よって越前、かの町人を掏摸とは呼ばぬぞ」
「あの、手紙を? なれど御前、どうしてそのようなことがおわかりになりまする?」
と眼を円くしている大作を無言にうながして、忠相はしんから愉快そうに、左膳の書をのんだふところをぽんと一つたたいて歩き出した。
「ははあ。なるほど委細《いさい》そこに!」大作は自分の胸を打つ真似《まね》をして、
「いや、さようでございましょうとも! さようでございましょう!」
感に耐《た》えて首を振りながらお供につづこうとすると、忠相はぼんやりと立ちどまって、いま栄三郎のはいって行った露地の口を見守った。
狭い裏横みち。
角《かど》にささやかな空地《あきち》。
材木が積んであって、子供が十四、五人がやがや遊んでいる。
空高く、陽は滋雨《じう》のごとく暖かだ。
ひさしぶりに満ちたりるまで巷の気を吸い、民の心と一つに溶けた大岡忠相、カンカン照る日光のなかで子供と同じ無心に返ってそのさざめきを眺めている。
一段高い積み木の上に正座した年かさの子。
「南町奉行大岡越前であるぞ。これ面《おもて》をあげい。そのほう儀……」
お白洲《しらす》ごっこだ。道理で、地面に茣蓙《ござ》を敷《し》いて、あれが科人《とがにん》であろう、ひとりの子供が平伏している。左右にいながれるお調べ方、つくばい同心格の子供達、眉《まゆ》を吊《つ》りあげ、頬をふくらせたその真面目《まじめ》顔。
越前守が苦笑しているうちに、あとの大作はぷッとふきだしてしまった。
はるかむこうに、さっき田原町を出て来た家主喜左衛門と鍛冶富、また大岡に会ったと外《よそ》ながら慇懃《いんぎん》に小腰をかがめる。本所の鈴川方へ行く途中とみえる。これを見ると忠相は、さては誰か顔を知っておる者にみつかったな! と足を早めて立ち去ったが、あるかなしかの風が白い砂ほこりを低く舞わせて、うしろに子供の大岡様の声がしていた。
「そのほう儀、去る二十九日、横町の質屋の猫を天水桶《てんすいおけ》に突っこんで、そのまま窓からほうりこんだに相違あるまい。まっすぐに申し立ていッ――」
「姐御ッ」
と飛びこんで来たけたたましい与吉の声に、長火鉢《ながひばち》の向うからお藤は物憂《ものう》い眉をあげた。
「なんだね、そうぞうしい」
立て膝のまま片手で畳をなでているのは、煙管《きせる》を探すつもりらしい。
櫛まきお藤の隠《かく》れ家《が》である。
「いけねえ。落ち着いてちゃあいけねえ!」と与吉は、わらじをとくまも呼吸《いき》を切らしているが、家内のお藤は大欠伸《おおあくび》だ。
「また始まったよ、この人は」
てんで相手にしそうもないようすだけれど、それでもさすがに、ぬっとあがって来た与吉の道中姿を見るとお藤もちょっと意外そうに顔を引きしめて、
「おや! お旅立ち?」
「ヘヘヘヘ
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