隊という思わぬ横槍がはいって、四、五の敵をむなしく殺《あや》めたほか、めざす左膳には薄傷《うすで》をおわせたにすぎなかったが、きょうにも乾雲丸に再会せぬものでもないと、歳の市の人中をぶらりと歩いていた諏訪栄三郎。
 ふと袖にさわるもののあるのを感じて、何ごころなく見返ると……。
 思いきや! 鈴川源十郎の腰巾着《こしぎんちゃく》、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉が、どういう料簡《りょうけん》か旅のしたくを調えて、今や自分の袖口に何か手紙|様《よう》のものを押し入れようとしている。
 コヤツ! 何をするッ!
 と考える先に、栄三郎の手はもう与吉の肘《ひじ》にかかっていた。
「おのれッ!」
「あ! ごめんなさい。人違いでございます」
「黙《だま》れッ! 貴様は過日《いつぞや》の――うむ、よし! そこまで来いッ!」
 引ったてようとする。ひたすらあやまって逃げようとする。この二人の争いに、気の早い周囲の江戸っ児がすぐにきんちゃく切りがやり損じたと取って、そこで、掏摸《すり》だ、掏摸だ! とばかりに与吉をかこんで袋だたきにし始めると、かなわぬと見た与吉、やにわに道中差しを抜いて通路を開きながら突っ走ってしまった。
 有難迷惑な弥次馬のおかげ、与吉をおさえそこねた栄三郎が、念のために袂をさぐってみると、出てきたのは、いま与吉が投げこんでいった丹下左膳から栄三郎へ……すなわち、夜泣きの刀乾雲丸から同じ脇差坤竜丸へあてた一通の書状!
 混雑中ながら猶予《ゆうよ》はならぬ。手早く封を切って読みくだした栄三郎なにごとかサッ! と顔色を変えたと思うと、手紙を、武蔵太郎の柄がしらといっしょにグッと握りしめて遅ればせだが、与吉の去った方へしゃにむに急ぎだした。
 剣怪左膳の筆跡――そもそも何がしたためてあったか? 妖刀乾雲、左膳の筆を藉《か》りていかなる文言をその分身坤竜にもたらしたことか?
 それはさておき。
 人を左右に突きのけてくる栄三郎の浪人姿を、群集の頭越しにみとめた忠相は、あれが今の掏摸にあった侍というささやきを耳にするや、何を思ったか、いきなり足を早めて彼をつけだした。
 カッ! と血が頭脳にのぼっているらしい栄三郎、人浪を押しわけてよろめき進む。男をはねのける。女はつきとばす、子供も蹴散らしてゆくがむしゃらぶり。
 忠相も、いそいでそれに続いたが、嫌というほど誰かの足を踏んで、痛いッ! と泣き声をあげられた時は、大岡越前守忠相、にこやかな笑顔を向けて丁寧《ていねい》に詫びた。
 しかし、
 駒形を行きつくして、浅草橋近くなったころは、与吉も追っ手も影を失って、栄三郎もはじめてあきらめたものか、悄然《しょうぜん》とゆるんだ歩を、そこから折れて瓦町のとある露地へ運び入れた……市のにぎわいをうしろに。
 忠相が後から声をかけた。
「彼奴《きゃつ》、稀代の韋駄天《いだてん》、駿足《しゅんそく》でござるな、はははは、それはそうと、貴殿、落とし物はござらぬかの?」
 振り返った栄三郎は、そこに、見おぼえのない上品な武士が立っているので、思わずむっとして問い返した。
「拙者に何か仰《おお》せられましたか」
「いや、ただいまのさわぎ……彼者《かのもの》は、貴殿にこの書面を捻じこんでいったに相違ござるまいと存ずる。なに、これはただ拙者の推量だが、はははは、いかがでござるな?」
 との忠相の言葉に、栄三郎は、はっと気がついたようにじろりと忠相を見やりながら踵《くびす》をめぐらそうとしたが!
 今のいままで手につかんでいたはずの左膳の手紙が! どこでいつ落としたものかなくなっているので、おや! と忠相の手もとを見ると!
 これはまたどうしたというのだ。
 いつ、どこで拾ったものか、皺くちゃのその手紙がちゃんと忠相の手にあるではないか。
「やッ! そ、それは――」
 と、あわてふためいた栄三郎が、われを忘れて跳びかかろうとするとヒョイとさがった越前守忠相、手にした封書の裏おもてを、じらすように栄三郎の面前にかざしてにっこりした。

[#ここから4字下げ]
諏訪栄三郎殿
[#ここで字下げ終わり]
[#地から9字上げ]隻腕《せきわん》居士 丹下左膳拝

「いかにもその手紙は、拙者の落としたもの。不覚……ともなんとも言いようがござらぬ、恥じ入ります。お拾いくだされた貴殿にありがたく厚くお礼を申します。いざ、お渡しを願いたい――」
 これが町奉行の大岡越前守とは知る由もない栄三郎、よし零落《おちぶ》れて粗服《そふく》をまとうとも、面識のない武士には対等に出る。かれは必死に狼狽《ろうばい》を押しつつんで、こう言って二、三歩進み出たが、忠相は同時にあとへさがって、
「お手前が諏訪栄三郎といわるる。それはよいが、これ、裏に丹下左膳――隻腕居士拝とある。そこで諏訪氏貴殿に
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