をつっこんで、
「ふむ。海老《えび》がある」
「へい。ございます――本場物《ほんばもの》で」
「本場……と申せば、伊勢か」
「へえ、へえ、伊勢の上ものでございます」
 これを聞くと越前守忠相、山田の時代がなつかしかったものか、やにわにうしろを向いて呼ばわった。
「大作! 来て見い。みごとな伊勢海老《いせえび》じゃぞ」
 忠相の声が藪《やぶ》から棒に大きかったので、となりにしめ縄をひねくっていたおかみさんの背なかで、おびえた赤ん坊がやにわにワアッ! と泣きだした。
 市の中ほどへ出たときだった。
 突如、うしろに起こった人声を聞いて、忠相何ごころなく振り返ってみた。
 掏摸《すり》だ! 掏摸だアッ! と罵《ののし》りさわいで、背後の人々が一団となって揺れあっている。腕が飛ぶ拳が振りあがる、殴《なぐ》る蹴る。道ぜんたいが野分《のわき》のすすきのよう……。
 と!
 その、人のうずまきのなかにキラリと光った物がある。
「わアッ! 抜いたッ! 抜いたッ! 怪我をするな怪我をッ!」
 という声々がくずれたったかと思うと、旅仕度に身をかためたお店者《たなもの》らしい若い男が、振分けの小荷物を肩に、道中差しの短い刀をめちゃくちゃにふりまわしながら鼠のようにこっちへ飛んでくる、とばっちりを食って斬られてはかなわないから、通行人のむれがサッと左右にわかれたせまい無人の境を、弥次馬《やじうま》に追われて一散に駈けて来るのを見ると――つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉である。
 与吉のやつ、走りながら金《かな》切り声でどなっている。
「さあ! こうなりゃあどいつこいつの容赦《ようしゃ》はねえ。そばへ寄りゃあ、かたっぱしからぶった斬るぞッ! どいたどいたッ!」
 この勢いに辟易《へきえき》して、みな路をあけるばかり……誰ひとりとび出す者はいない。女子供の悲鳴、ごった返す人垣。としの市の真《ま》ん中《なか》にたいへんな騒ぎが勃発《ぼっぱつ》した。
 これがつづみの与吉――とは知らないが、抜刀をかざす男が近づくとみるや、大作は身を挺《てい》して前へ出るなり、すばやく忠相をかばって柄に手をかける。
「善ちゃん! こっち! こっち! 早くッ!」
 忠相の耳の下で黄いろい声が破裂した。商家の内儀風《おかみふう》の若い女が、この騒動ではぐれたらしく、その時、むこう側からヨチヨチと中間の空地を横ぎりかけた四、五歳の小児を死にもの狂いに呼んでいるのだ。
 与吉は刀身を陽にきらめかせて、もう鼻のさきへ迫ってきている。
「善ちゃん、危ないッ! いいからお帰り! そっちにッ!」
 と女が叫んだ刹那、忠相はヒラリと大作の守護を脱《だっ》して、あれよという間に、通りみちにまごつく善ちゃんを抱きかかえて向う側へ飛びこんだ。
 同時に!
 与吉と、与吉の道中差しは、鉄砲玉のように空《くう》になって疾駆《しっく》し去った。
 とおりがかりの浪人や鳶《とび》の者がぶつかりあいながら与吉を追っかけて行く。それッ! という忠相の眼顔にこたえて、大作もただちに追っ手に加わった。
「この雑踏に抜きゃあがるとは、無茶《むちゃ》な野郎もあったもんですね」
「掏摸《すり》だそうですよ。なんにしても人さわがせなやつで」
 あとには、市の人出が一面にざわめいて、そこにもここにも立ち話がはずんでいる。
 忠相も口をだした。
「掏摸か。それにしても道中姿は珍しいな」
「へえ。あれがあの輩《てあい》の手なんで……一つまちがえばその足で遠国へずらかろうという――」
「なるほどな」
 人品|卑《いや》しからぬお侍だが、どこの誰とも知らないから皆気やすに言葉をかわしている。
「なんでもお若いお武家とかの袂へ悪戯《わるさ》をするところを感づかれて、すんでのことでつかまろうとしたのを、まあ奴《やつ》にとっちゃあこの人混みを幸《さいわい》に暴れだしたんだそうで――とにかく、えらい逃げ足の早え野郎でごぜえます」
 忠相は、首を振って感心してみせた。
「袂にわるさをしたと申して、何か奪ったのであろうがな」
「そいつあ知りませんが、なんにしてもあんなけだものは寄ってたかってぶちのめしてさ、沢庵《たくあん》石でも重りにして大川へ沈めをかけるのが一番でさあ。南町に大岡様てえ名奉行が目を光らせていらっしゃるのに、そのお膝下《ひざもと》でこの悪足掻《わるあがき》だ。いけッ太え畜生じゃありませんか、ねえ」
 越前守忠相、くすぐったそうにうなずいて、ほほえみながら立ち去ろうとすると、善ちゃんの手を引いた若い母親があらためて礼を言っている。
「いや……」
 と笑った忠相の眼は、折りからまたひとり、血相を変えて人を分けてくる若い浪人者の上にとまった。
 諏訪《すわ》栄三郎だ――手に紙片を握っている。
 本所化物屋敷の斬りこみは、火事装束の一
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