かれは大変。なにしろ八方に目をくばって、ひとりで鯱張《しゃちほこば》ってお供をするんだから――。
小僧の喧嘩《けんか》にもぶつかれば、馬のいばりも飛ぶ。遊戯《あそび》にほうけた女の児が走り出て来てよろけたり、職人がお前を近く横切ったり……そのたびに大作ははっとするが、忠相にはすべてがほほえみと見えて、にこやかに左右を見渡しながらおおらかに歩を運ぶ。
観音様には、江府第一の大市。
並木の通りから雷神門《らいじんもん》へかけて、押すな押すなの人波である。
これはこれは!
というふうに、越前守の笑顔が大作をふり返った。
お江戸名物あさくさ歳《とし》の市《いち》。
町々辻々は車をとめ、むしろを敷いて、松、注連縄《しめなわ》、歯朶《しだ》、ゆずり葉、橙《だいだい》、柚《ゆず》……。
立ち並ぶ仮屋に売り声やかましくどよんで、臼《うす》、木鉢《きばち》、手桶《ておけ》などの市物が、真新しい白さを見せている。
浅草橋からお蔵《くら》まえ、駒形並木《こまがたなみき》、かみなり門の往来東西に五丁ほどのあいだ、三側四側につらなって境内はもとより立錐《りっすい》の余地もない盛りよう。おまけに裏は砂利場《じゃりば》、山の宿にまでつづいて、老若男女、お武家、町方、百姓の人出が、いろとりどりの大きな渦を巻いて、閑々《かんかん》としてまた閑々と流れていた。
冬の陽は高く銀に照って、埃と人いきれと物音が靉然《あいぜん》とひとつにからんで立ちのぼる。
陽の斑《ふ》点と小さな影とが、通りにあふれる人々の肩に踊って、高貴な虎の皮を見るようだが、何かしら弱々しく冷たいものがそのあいだにみなぎって、さすがに今年もあますところすくないあわただしさを思わせた。
芋《いも》を洗うような人ごみ。
そのなかを、おしのびの南町奉行大岡越前守忠相、自邸の庭でも逍遙《しょうよう》するように片手を袖に悠然と縫ってゆく。
すこし離れてお供をする用人伊吹大作は、ともすれば主君の影が雑踏にのまれようとするので、気が気でない。遅れてはならないと忠相の広い肩幅を眼あてに、懸命に人を掻きわけている。
右も左も、前にもうしろにも、眼のとどく限りの町すじを埋《う》めて、人、人、人……。
忠相はただ、まわりのすべてを受け入れ、頷《うなず》いて、あらゆる人と物に微笑みかけたい豊《ゆた》かなこころでいっぱいだった。
そこには、位の高い知名な身の自分が、今こうして市井《しせい》の巷を庶民に伍《ご》してもまれもまれて徒歩《ひろ》っているのを誰ひとり知るものもないという、稚《おさな》い、けれども満ちたりたよろこびなどはすこしもなかった。もっとも以前ひそかにこの府内巡行をはじめた最初のうちは、彼にもそうした悪戯《いたずら》げな気もちが、まんざらないでもなく、街上をゆく者や店々に群れさわいでいる男女が、なんらかのはずみで自分が大岡越前であることを知ったら、かれらはどんなにか驚き、恐れ、且《か》つあわててそこの土に平伏することであろうか――こう考えると、忠相はいまにも誰かにみつかりそうな気がしてならなかったり、時としては、余は南町の越前である! と叫びあげたい衝動に襲《おそ》われたりしたものだが、しかし、それは昔のことである。
いまの忠相は、すっかり枯れきっているのだ。
かれは何らの理屈も目的もなしに、中老の一武人として、寂《さ》びた心境のなかに日向《ひなた》の町を歩いているだけで、言いかえれば、この、浅草の歳の市をひやかしてゆく、でっぷりとふとった上品なお侍は、南町の名奉行大岡越前守忠相ではなく、江戸の一市民にすぎないのだ。だから、向うから来て、自然と顔を合わせてすれちがう多くの者が、誰も気がつかずに往くのにふしぎはないのだった。
奉行といえども二本の脚がある以上、こっそり町を歩いたとてなんの異やあらん――忠相はこう思っている。その気でどこへでも踏みこんでゆくのだから、お付きの者は人知らぬ気苦労をしなければならないので、いつもおしのびを仰せ出されると、みなこそこそいなくなったり急に腹痛《はらいた》を起こしたりするのがつねだった。
伊吹大作は人が好いので、ほかの者に代りを押しつけられてたびたびお供をしているうちに、根がお気に入りだけに、このごろでは市内巡視には必ず大作がおつき申し上げることにいつからともなく決まってしまっているのだが、これがなかなか大汗もので、さすがの大作、正直なところ迷惑《めいわく》しごくと腹の底でこぼしている。
ことに今日!
ところもあろうに浅草の市なぞへおみ足が向こうとは思わなかった!
と大作、人浪に押し返されて、くるしまぎれに恨んでいるが、この大作の心中には頓着《とんじゃく》なく、忠相は身体を斜めにしてどんどん進みながら、つと眼についた一軒の仮店に首
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