の妻、母、いやもう祖母であろう。その妻たり母たり祖母たる者に足を拭かせたとあっては、わしがその人々に相すまん。な、許してくれ。ここはわしのほうであやまる。ははははは」
なんというわけのわかった、奥ゆかしいお侍だろう!――と老婆が涙ぐんで頭をさげていると、「だが」と侍はつづけて、「往来筋の掃除は、まだ人の出ん早朝のうちにいたしたがよろしかろう。あ、これ! それから、あそこに散らばっておる紙屑《かみくず》古下駄のたぐい、新しき年を迎えるに第一みぐるしい。隣家の前ではあるが手のついでに取りかたづけてやりなさい」
声もなく老婆が二つ折れに腰をかがめた時に、くだんの武士、ちらとうしろを見返って歩き出そうとした。お供《とも》であろう、すこし離れて同じつくりの血気の侍がひとりついているのだ。
こんなこととは知らないから、婆さんから婆あへおいおい格をおとして、家内では喜左衛門が胴間《どうま》声をあげている。
呼んでいるから行け! というように、先なる侍の眼がほほえんで老婆を見た。
いくら呼んでも女房の返辞がないので、チェッ! と舌打ちをした喜左衛門は、自分で外出のしたくをして、すぐに本所の鈴川様のお屋敷へ行こうと、鍛冶屋富五郎をうながしてそとへ出た。
出てみると、
そこらにいないと思った女房が、いまにも泣き出しそうな顔をさげて、誰かにピョコピョコおじぎをしている。喜左衛門老人はカッカッとなった。
「なんでえ! べら棒めッ! 通る人を見て泣いてやがら。気でも狂れたんじゃねえか」
ポンポンどなりながらひょいと見ると、四、五|間《けん》むこうを供をつれてゆくりっぱな侍。
はて! どこかで見たような! と小首をかしげた喜左衛門、こんどは蚊の鳴くような低声《こごえ》だ。
「婆さんや、どうしたんだえ? 何か、あの武家さんに叱られでもしたのかえ?」
まあお爺さん、お聞き。世の中にはえらいお人もあるものさね。こういうわけなんだよ――と女房の話すのを聞いて、すっかり感心した喜左衛門、へえい! と眼をあげて改めて侍のうしろ姿を見送ったとたんに。
歩き出していた主従《しゅじゅう》が、一緒にちょっと振り返ったが、先に立つ老武士の顔を見た喜左衛門は、にわかに周章狼狽《しゅうしょうろうばい》して、いきなり女房と鍛冶富の手をぐっととると、声を忍ばせて続けざまに、
「大岡様《おおおかさま》だ! 大岡さま! 大岡さま!……まぎれもねえ大岡様だッ! ヒャアッ婆さん! お前まあ大《たい》したお方と口をきいたもんだなあ!」
「えッ! あ、あれが大岡様! お爺さん、お前さんまた担《かつ》ぐんじゃあないだろうねえ」
「ばかッ! こんな冗談が言えるもんか。はばかりながら公事御用に明るくて江戸でも名代《なだい》の口きき大家だ。南町のお奉行所は手前の家よりも心得ているんだが、実《じつ》あ、たった一度、それ、極道《ごくどう》長屋の鉄の野郎《やろう》がお手あてになって、おれが関係に付き添って行ったことがあるだろう? あの時、お白洲《しらす》でお調べをなすったお顔がまだ眼の底にこびりついてらあ。そうよ。今のが大岡さまだ! 南町のお奉行|大岡越前守忠相《おおおかえちぜんのかみただすけ》様!」
「知らぬこととはいいながら」婆さんは浄瑠璃《じょうるり》もどきだ。
「ああありがたい。いっそもっとおそばによって、よくお顔を拝んどきゃよかったよ。ねえ、お爺さん、この話は孫子の代まで語《かた》り草《ぐさ》だねえ」
「そうとも、そうとも! うしろ影なりと拝みなおすこった」
「こちとら、こんな時でもなけりゃあお奉行さまなんか顔も見られねえ。よし! 長屋じゅうへふれてみんなを呼んでこよう」
鍛冶富が駈け出そうとするのを、喜左衛門がとめた。
「富さん! もったいねえことをするもんじゃねえ。おしのびでいらっしゃるんだ――」
土下座《どげざ》をせんばかりに喜左衛門夫婦と鍛冶屋富五郎がガヤガヤしているのを、仔細《しさい》を知らない通行人がふしぎな顔で見て通る。
そのうちに。
うららかな陽を全身に浴びた大岡忠相。きょうは文字どおりの忍びだから、手付きの用人|伊吹大作《いぶきだいさく》ただ一人を召しつれて、さっさと角《かど》をまがってしまった。
どこへ? というあてもない。
いわばぶらぶら歩きである。
民情に通じ、下賤《げせん》を究《きわ》めることをもって奉行職の一必要事と観《かん》じている越前守は、お役の暇を見てよくこうして江戸の巷を漫然《まんぜん》と散策することを心がけてもいたし、また好《この》んでもいたのだ。この日も冬には珍しい折りからの晴天を幸い、年のくれの景況でも見ようとぶらりと屋敷を出たものであろう。思うこともなさそうに越前守忠相、人を避けてあるいてゆく。あとに続く伊吹大作の気づ
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