、そいつが皆目《かいもく》わからねえ」
「火事装束? へんな話だね。なんにしても押し迫ってから物騒《ぶっそう》な」
「さいでげす。でね、その野郎は眼を皿のようにしてかぎまわっているんですがね、さあ、口裏をひいてみるてえと、こんなこたあ大きな声じゃ言えねえが、どうも鈴川様はだいぶお上《かみ》に眼をつけられてるらしいね。ことによると近々お手入れがあるか知れねえと。いや、これあね、わたし一人の考えだが、ははは……ね、とまあ、言ったような次第さ。どうしたもんでごわしょう?」
「事件が起こったあとじゃあ、おさよさんもかわいそうだし――」
「それに、係りあいでこちとらの名が出るようなこたあまっぴらだ」
「ようがす!」喜左衛門は考えていた腕をほどいて、
「お前さんも、今のところ乗りかけた船でしかたがねえとあきらめて、どうだね、せわしい身体だろうが、一つこれから私といっしょに本所に出向いてくれませんかい……おい! 婆さんや、あっちの羽織《はおり》を出してもらおう。ちッ! 用のある時はきまってそこらにいやあしない。いい年をしやがって、あんな金棒引《かなぼうひ》きもないもんだ。ばあさん!――しようがねえなあ。婆あッ!」
家主喜左衛門、だんだんカンカンになって、ポッポと湯気をあげている。
客――でもないが、鍛冶屋富五郎が来ているあいだに、ちょっと家のまえの往来でも掃《は》いておこうと、喜左衛門の女房は箒《ほうき》を持って表へ出た。
いいお天気。
日の光が町全体に明るく踊って、道ゆく人の足もおのずから早く、あわただしい暮れの気分を作ってるなかにも、物売りの声がゆるやかに流れて、徳川八代泰平の御治世《ごじせい》は、どこか朗《ほが》らかである。
歳《とし》の市《いち》へ、伐《き》り出した松を運ぶ荷車が威勢よく駈けて通る。歳暮の品を鬱金木綿《うこんもめん》の風呂敷《ふろしき》に包んで首から胸へさげた丁稚《でっち》が浅黄の股引《ももひき》をだぶつかせて若旦那のお供《とも》をしてゆく。
「おばちゃん……」
という声に振り返ると、長屋の由《よし》公がお袋《ふくろ》に手をひっぱられて横丁の人|混《ご》みに消えるところだった。その母親の白い顔が笑って、何かそそくさと挨拶をしたようだった。
泣いても笑ってもあと何日――町へ出てみると、しみじみとそんな気がするのだった。
そうだ。気は心だからあの児へ何かお歳暮をやらなくちゃあ……女の子達には出ず入らずで一様に羽子板がいいけれど、腕白《わんぱく》にはやはり破魔《はま》の弓かしら?
こんなことを考えて、何度も腰をのばしながら、喜左衛門の女房はせっせと格子の前を掃いている。
うつ向いて箒の手を動かしていると、眼に入るのは近くを往来する人の足ばかりだ。
知った人が声をかけてゆく。
通る人の足をよごさないように気をつけてはいたが、誰かにお低頭《じぎ》をされた拍子だった。ふと箒の先に思わぬ力がはいって折りから掃きためてあった塵埃《ごみ》が飛んで、ちょうど前を歩いていた人の裾から足袋《たび》へしたたかかかった。
はっとして顔をあげると、
着流しに蝋鞘《ろうざや》の大小を差した、すこしふとり気味の重々しいお侍である。
切れ長の眼《まな》じりに細い皺を刻んで、じっと立ちどまったまま、埃《ほこ》りを浴びた足もとと、箒をさげてどぎまぎしている老婆の顔とをしずかに見くらべている。
喜左衛門の女房は、背中に火がついたように狼狽《ろうばい》した。
お手うち! 斬られる! 斬られないまでも、どんなおとがめがあろうも知れぬと思って、はっとすると舌がこわばった。
「あれッ! とんだ、また、粗相《そそう》をいたしまして! どうぞ殿様、どうぞ御料簡《ごりょうけん》なされてくださりませ」
とっさにこう詫《わ》びると同時に、のめるように飛んで行って前掛けの先で侍の足を払おうとした。
と、侍は二、三歩さがって、おだやかに笑った。
「ああ、よいよい。あやまちは誰にでもあること――自分で拭くから心配はいらぬ」
言いながらもう懐紙《かいし》を出して、ゆっくりと裾をはらっている。
相当の年齢。服装なども、眼にはつかないが、争えない高貴なおもむきを示して、何よりもそのふくよかな穏顔《おんがん》に、人なつっこい笑みが春の海のように輝いていることだった。
ぼんやり見ていた喜左衛門の女房はわれに返ったように再び侍の足へ突進して、転ぶようにしゃがむなりまたほこりをたたきだした。
「わたくしの不調法でございます。お手ずからはあんまりもったいなくて、恐れ入ります。どうぞおゆるし遊ばして」
「いや。それにはおよばぬ」
侍は急いで身をひくと、手を取らんばかりにして、なおも争う老婆を立たせた。
「ははは、なんのこれしき! お前も家にはいっては人
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