だ。
 それだのに。
 お屋敷へあがったおさよからは、便りどころかことづて一つあるではなし、娘は娘で、勝手に男をこしらえて今はどこにどうしているとも知れず店をしめて突っ走ってしまった。
 お艶は何をいうにも若い女のこと、ただ折角《せっかく》のこの家に敷居が高くなるだけで、それも言ってみれば自業自得《じごうじとく》だが、婆さんは年をくっているくせにあんまりとどかなすぎる。が、そんなことを一々怒っていた日には、家主は癇癪《かんしゃく》が破裂して一日とつとまらぬ。とはいえ、聞くところでは鈴川様は、大して御評判のよくないお屋敷だとの人の口もある。あれやこれやを思い合わせると、苦労性だけに喜左衛門は、お艶の身の上といい、とりわけおさよ婆さんのことがどうもこのごろ気にかかってならないのだ。
「娘っこも娘っこだが、おふくろもおふくろだて」
 われ知らず口に出た喜左衛門へ、女房が茶《ちゃ》の間《ま》へはいってきて受け答えをした。
「お前さん、おさよさんとお艶|坊《ぼう》のことを気におやみだねえ」
「うん。虫の知らせと言おうか。なんとなくこう胸騒《むなさわ》ぎがしてならねえ」
「そうだねえ。そう言えばわたしもこの二、三日あの親娘の夢見が悪いのさ。どうだろう、いっそ本所のお屋敷へうかがってみては?」
「うん……そうよなあ」
 と喜左衛門が生《なま》返事を洩らした時、勢いよく格子があいて、
「おうッ、喜左衛門どん、いるかね!」

「押しつまりましたね」
 鍛冶富は、すわるとすぐ煙草《たばこ》入れをスポンと抜いてから言った。
「御多用でごわしょう……」
 ぽつんとこたえて、喜左衛門は気がなさそうである。鍛冶富はクシャクシャと顔中をなでまわして、
「いえね。なんてえこともなく、ただこう無闇《むやみ》に気ぜわしくてね、ははは、やりきれません」
 で、今さら、年の瀬の町の騒音が身にしみるようにそしてそれを噛んで味わうように、二人はちょっと下を向いてめいめいの手の甲をみつめた。
 喜左衛門の女房《にょうぼう》が茶を入れてすすめる。
 ふたりはいっしょに音を立ててすすった。
 喜左衛門は髪も白いほうが多く、六十の声をかなり前に聞いたらしい年配だが、富五郎は稼業《かぎょう》がら、おまけに今でも自ら重い槌《つち》を振っているだけあった。年齢も喜左衛門よりははるかに下だけれど、それにしても頑丈な身体つきをしている。腕っぷしなぞ松の木のようだ。
「なあ喜左衛門どん」
「はい」
 しばらく何かもそもそしていた鍛冶富は、やがて思いきったように口をひらいた。
「おさよさんのこってすがね――」
 と聞いて、喜左衛門が、ほん、ほん! というような声を立てて急に膝を乗り出すと、鍛冶富もそれに勢いがでて、
「いや、お笑いになるかも知れねえが、ちょいとその、鈴川様のお屋敷について嫌なことを聞きこみしたんでね……」
「ほ! なんですい?」
「まあさ、あそこへおさよさんを入れたのは、お前さんとわたしが請人《うけにん》。請人と言えば親もと代りのもんだから先方から変な噂を耳にするにつけて、わたしもいろいろと気をもんでいましたがね、今度はどうも聞きっ放しにならねえから、こうしてお話しにあがったようなわけで――」
「はい。いや、殿様のお身持ちのよくねえことやなんかは、わしもちょくちょく聞いておりましたがな、はい、一体全体まあどんなことが起こりましたい? 実はな富さん、おさよ婆さんのことといい、あのお艶坊のほうといい、今度の和田さんの後始末にだけはこの爺《じじ》いも手をやきましたよ。もう人の世話はこりごりだといつも婆《ばあ》さんとこぼしているくらいさ。ま、お前さんのまえだが、わしもこの件にはえらく気を使ってな、いっそのこと出かけていって、おさよさんを願いさげてお前さんにでも引きとってもらおうかと、今も、なあ婆さんや、はい、これとね、まあ、話しておりましたところですよ」
「ヘヘヘ、お艶さんもどうも困りもんだがあれはお奉行所へも捜《さが》し方を願ってあることだし、それより今日のはなしは……なにね、あっしの友達に御用聞きの下で働いている野郎《やろう》がありましてね、そいつが言うんだが、先日なんだってえじゃあありませんか。あの雨の晩にお屋敷に斬りこみがあって、死人や怪我《けが》人がうんと出たそうじゃあありませんか。何か、お聞きになりませんでしたかね?」
「はい。そう言えば、そんなようなこともちらと小耳にははさみましたが――それでなんですい、その暴れこんだ連中てのは? 意趣遺恨《いしゅいこん》とでもいうような筋あいですかい?」
「それがさ、その下っ引きの言うことにゃあ、なんでも同じ晩に二組殴りこみをかけたらしいんだが、あとから来たのは火事装束のお侍が五人――というんですけれど、さあ、なんのための斬り合いだか
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