な! 声が高えぞ!」
「黙ってろ黙ってろ! それより、用意はいいな。お出になったらすぐ往くんだ。コウレ、七公、尻《けつ》ウさげろってことよ」
 わいわい言いあっているが――。
 多少わけ知りらしい口調といい、ことに、この十人の男が、いずれも六尺近い、仁王のような頑丈《がんじょう》なのばかりがそろっていることといい、決して普通の駕籠|舁《か》きとはうけとれない。
 この、力士のような堂々たる人足《にんそく》が十人、いっせいに鈴川方の塀の木戸へ眼をあつめていると、はたして、パッと内部から戸を蹴りあげて走り出た五人の火事装束!
 首領らしい老人を先頭に、それぞれ抜き身を手に、すばやく駕籠へおさまると、
「そら来た! やるぜ!」と合図の声。
 五つの駕籠がギイときしんで地を離れたかと思うと、棒鼻《ぼうはな》をそろえて――。
 エイ、ハアッ!
 ハラ、ヨウッ!
 見るまに駈け出した五つの駕籠、早くも朝寒の雨にのまれて、通り魔の行列のように、いずくともなく消えてしまったが、それは実に驚くべき迅速《じんそく》な訓練であった。
 どこから来てどこへ去ったとも知れない五つの駕籠!
 その中の火事装束の五人の武士。
 かれらもまた、乾坤二刀を奪ってひとつにせんとするものであろうか?……とにかく、江戸の巷に疾風のごとき五梃駕籠が現われたのはこの時からで、あとには、一夜の剣闘に荒らされた鈴川の屋敷に、朝の光になごむ氷雨がまたシトシトとけむっていた。

   合《あ》わせ鏡《かがみ》

 冬らしくもない陽がカッと照りつけて、こうして日向《ひなた》に出ていると、どうかすると汗ばむくらいだ。
 ウラウラと揺れる日の光のにおいが、障子に畳にお神棚《かみだな》に漂って、小さなつむじ風であろう、往来の白い土と乾いた馬糞《ばふん》とがおもしろいようにキリキリと舞いあがって消えるのが、格子戸ごしに眺められる。
 裏の銭湯で三助を呼ぶ番台の拍子木《ひょうしぎ》が、チョウン! チョウン! と二つばかり、ゆく年の忙《せわ》しいなかにも、どこかまだるく音波を伝える。と、それを待っていたかのように、隣家の杵屋《きねや》にいっせいにお稽古の声が湧いて、きイちゃん、みイちゃんの桃割れ達が賑やかに黄色い声をはりあげた。
 くろウ、かアみイの、ツンテン。
 むすウぼオれエた――るうウウ。
 錆《さ》びたお師匠《ししょう》さんの声が、即《つ》かず離れず中間を縫ってゆく。
 ……聞いている喜左衛門《きざえもん》の皺《しわ》の深い顔に、思わず明るい微笑がみなぎると、かれは吸いかけた火玉をプッ――と吹いて、ついで吐月峰《はいふき》のふちをとんとたたいた。
 三十番神の御神燈に、磨《みが》き抜いた千本格子。
 あさくさ田原町三丁目家主喜左衛門の住居である。
 長火鉢のまえに膝をそろえた喜左衛門は、思いついたように横の茶箪笥《ちゃだんす》から硯箱《すずりばこ》をおろして、なにごとか心覚えにしたためだした。
 こう押しつまると、年内にかたづけたい公事用が山のようにたまっているところへ、きょうも朝から何やかやと町内の雑事を持ちこまれて、茶一つゆっくりのんでいられないのだった。
 走り奴《やっこ》の久太《きゅうた》が、三が日《にち》の町飾りや催し物の廻状《かいじょう》を持ってきたあとから、頭《かしら》の使いが借家の絵図面を届けてくる。角の穀屋《こくや》が無尽《むじん》の用で長いこと話しこんで行ったばかりだ。
「いやはや!」と喜左衛門はつぶやいた。「こういそがしくちゃ身体が二つあってもたりねえ」
 と、ふと彼は考えこんで、そのまま筆を耳にはさんで腕を組んだ。
 屈託顔《くったくがお》。
 もとの店子《たなこ》おさよ婆さんの一件である。
 三間町の鍛冶《かじ》屋富五郎、鍛冶富に頼まれて、奥州の御浪人|和田宗右衛門《わだそうえもん》とおっしゃる方を世話してこの三丁目の持店《もちだな》のひとつに寺子屋を開かせた。が、まもなく宗右衛門は死んでしまう、あとに残ったおさよお艶《つや》の親娘《おやこ》の身の振り方については、鍛冶富ともよく談合したうえ、おさよ婆さんのほうは、じぶんと富五郎が請人《うけにん》にたって本所法恩寺橋まえの五百石お旗本鈴川源十郎様方へ下女にあげ、娘のお艶には、これも自分が肝《きも》いりで、当時売り物に出ていた三社《さんじゃ》前の掛け茶屋当り矢を買いとってやらせてみたのだったが……。
 鍛冶富は、人のうわさによれば、だいぶお艶に食指が動いてそのために、金もつぎこめば、また到底《とうてい》そのほうの望みがないとわかってからは、かなり激しく貸し金の催促もしたようだけれど。
 おれはただ、店子といえば子も同然、大家といえば親も同然――という心もちから、慾得《よくとく》離れてめんどうをみただけのことなの
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