たけだか》だ。
すばやく眼を交わした弥生お艶、何がなしに同じ意を汲みあって、まるで約束していたように等《ひと》しくとぼけた。
「いいえ、どなたも……」
「はてな?」
と多勢が首を傾けたからさては踏みあがってくるかな? と見ていると、それでは他家《よそ》だったかも知れないと一同急いで出て行った。
露地から屋根まで御用提灯でいっぱいで、めざす女を逃がした役人達がくやしそうになおも右往左往している。時ならぬ雨中の騒ぎに長屋の者も軒並みに起き出たようす。
「張りこみに手落ちがねえから、どっかでひっかかりやしたろう」
どぶ板を踏み鳴らしながら、話し過ぎる岡《おか》っ引《ぴ》きの高声……お艶と弥生は、たがいに探るように瞳の奥を見つめていたが、筒抜けていったお藤については、ふたりとも何も言わずに、そのうちに戸外の物音もしずまりかけると、羊のように怖《お》じすくんでいたふたりの心もゆるんで、お艶、弥生、はじめて若い女らしく笑いあった。
と、それを機会《しお》に、弥生はそこそこに戸口に出て、女と女の長い挨拶ののちに、露地をゆく跫音《あしおと》がやがて消え去った。
この雨の明け方を、弥生さまはおひとりで番町《ばんちょう》とやらへおかえりになるつもりであろうが、なんというお強い方であろう! と送りだしたお艶が気がついてみると、風呂《ふろ》へ行ったはずの栄三郎様がまだ帰宅していない!
これは、何ごとか突発したのだ! とにわかに暗い不安の底に突きおとされたお艶だったが、かれが畳に崩《くず》折れて考えこんだのは、いま出ていった弥生さまへの義理! 義理! 義理!
水茶屋の苦労までなめただけあって、浮き世の義理には脆《もろ》すぎるほど脆いお艶であった。
中庭に入りまじる剣戟《けんげき》の音に身をすくませて、おさよが納戸の隅にふるえていると――。
あし音とともに、泰軒と栄三郎の話し声が近づいてくるので、おさよはいっそう闇黒の奥に縮まった。
誰か知らないが暴れ者がふたりやって来た……こう思って見つかっては大変と、息を凝《こ》らしている。
そとの廊下では、納戸のまえに二人が足をとめたようすで、
「お! こんなところに部屋があります」
という若い声。すると年老った声がそれに答えて、
「ほほう。ここから戸外《そと》へ出られぬかな?」といっているから、さてははいってくるかも知れぬと思うまもなく、サッと板戸があいて、老若ふたりの浪人姿が黒い影となって戸口をふさいだ。そして暗い室内をしばらくのぞいているようだったが、やがて、ここからは出られぬことを見たものらしく、軽い失望の言葉を捨てて戸を閉《し》めた。
二人の足音が遠ざかって、そのうちに台所ぐちからでも屋敷を出離れて行ったけはい。
これを娘お艶の男の栄三郎と知らぬおさよは、ほっとしてまた耳を傾けた。
今ふたり出ていったにもかかわらず、庭にはまだ剣のいきおいが漂《ただよ》って、撃ちあうひびき、激しい気合いが伝わってくる。
栄三郎に泰軒としては。
この鈴川の屋敷に、お艶の母おさよ婆さんが下女奉公にあがっていて、それがお艶が逃げたことから源十郎にひどいめにあわされているらしいと知っていたので、ついでに助け出したいとも思って納戸まであけてみたのだったが、世の中にはこういう変なことがすくなくない。救いを求める人と、救う目的でさがす人とが一度はこんなに近く寄りながら、たがいに相手を知らずにそのまま過ぎてしまう――これも人間一生の運命《さだめ》を作る小さなはずみのひとつかも知れなかった。
夜もすがらの雨に、ようやく明けてゆこうとする江戸の朝。
やがて……。
泰軒と栄三郎が、遠く鈴川の屋敷をはなれたころ。
ほかの側の外塀《そとべい》にぴったりついて、先刻から供《とも》待ち顔に底をおろしている五梃の駕籠《かご》があった。
江戸の町では見かけない山駕籠ふうの粗末なつくりだが、陸尺《ろくしゃく》は肩のそろった屈強なのがずらりと並んでいて、
「エオ辰《たつ》ウ、コウ、いやに長く待たせるじゃあねえか」
「さようなあ。もういいかげん出てきそうなもんだが、こう長くかかるところを見るてえと、こりゃあひょっとすると大物のチャンバラだぜ。なあ勘《かん》」
「あたりめえよ。荒療治《あらりょうじ》だなあ。ちったあ手間のとれるなあ知れきったこった」
「それあいいが先にもだいぶんできてるのがいるっていうじゃあねえか」
「そのかわり、こっちだって一粒|選《よ》りだ。なあに、案ずることあねえやな」
「俺《おれっ》チだっていざとお声がかかりゃあ飛びこんでって暴れるんだ。先生ら、こう、ぴかつく刀を振りまわしてよ、エエッ……なんてんで、畜生ッ、うまくやってるぜ」
「全くだ。おれも乗りこんでやってみてえなあ」
「シッ! おおい、みん
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