きの大小の流別。おのが病のこと……など、など。
そして、
「わたしはもう帰ります。なんのためにおじゃまにあがったのか、じぶんでもわかりません。栄三郎様にはお眼にかからぬほうがよろしゅうございます……ただおふたりともお身体をお大事に」
起ちあがりながら、弥生はつけたした。
「お艶さま。どうぞわたしの分もいっしょに栄三郎様へお尽くしなすってください。あの方は、道場にいらっしゃるころから、寒中でも薄着がお好きで、これから寒さへ向かいますのに、もしやお風邪《かぜ》でもと、ほほほ、あなたというお人がいらっしゃるのに、とんだよけいなことを申しました。では、わたしの参りましたことは、おっしゃらないように――夜中失礼いたしました」
と、強い弥生は、もういつもの強い弥生であった。
が、それと同時に、弱いお艶はすでにいつもの弱いお艶に返って勝った恋のくるしさに耐え得でか、わッ! と声をあげて哭《な》き伏したので、これを耳にした戸外のお藤、
「なんだい一体! おもしろくもない愁嘆場《しゅうたんば》だよ。また泣きだしゃがった!」
われ知らず口にのぼしてつぶやいた拍子に!
雨音を乱して近づく多人数の人の気!
はっとして露地の入口に向けたお藤の眼に、ほの光る銀糸の玉すだれをとおして映ったのは、いつのまにどこから湧いたか、真っ黒ぐろに折り重なった捕手《とりて》の山! 十手の林! しいんと枚《ばい》をふくんで。
おやッ! と胆を消しながらもそこは櫛まきの大姐御《おおあねご》、にっと闇黒に歯を見せてすばやく左右の屋根を仰ぐと、どっこい! 人狩りの網に洩れ目はなく、御用の二字を筆太に読ませた提灯《ちょうちん》が、黄っぽい光を雨ににじませて、そこにもここにも高く低く……。
ふくろ小路《こうじ》だ。にげみちはない。
と、とっさに看取した櫛まきお藤、おちょぼ口を袖でおさえると、ひとりでに嬌態《しな》をつくった。
「あれさ、野暮《やぼ》ったいじゃないか、いやに早い手まわしだねえ!」
一手|所望《しょもう》だ……という男の声は、算《さん》をみだした闘場において、確かなひびきをもって栄三郎の耳をうった。
鼻と鼻がくッつきそう――闇黒をのぞくまでもなく、相手は、ふり注ぐ雨に全身しぼるほど濡れたりっぱな武士!
鈴川源十郎の化物屋敷には、まだ雨中剣刃の浪がさかまいているのだ。
泰軒があぶない! と見て踏み出した栄三郎も、眼前に立ち現われたこの侍の相形《そうぎょう》には、思わず愕然《ぎょっ》として呼吸を切った。
正規の火事|装束《しょうぞく》――それもはっきりと真新しく、しかるべき由緒《ゆいしょ》を思わせる着こなし。
それが抜き放った大刀をじっと下目につけたまま、栄三郎の気のゆえか、どうやら角頭巾《かくずきん》の下から眼を笑わせているようだが、剣構品位《けんこうひんい》尋常でなく、この場合、おのずと立ち向かった栄三郎、何やらゾクッ! と不気味でならなかった。
なに奴《やつ》?
地からせり上がったか、それとも闇黒が凝《こ》ったか――とにかく、鈴川邸内の者とは見えない。
とすれば?
駈けつけた敵の助勢であろうか、それにしても、このものものしい火事場の身固めと、なんとなく迫ってくる威圧、倨傲《きょごう》の感とは、なんとしたことだ……。
刀をつけながらも、不審《ふしん》にたえない栄三郎が、さまざまに思い惑って、ちらとそばのやみに眼をくばると、ふしぎ! にも落ち残った葉を雨にたれた木立ちのかげに、同じ装束《しょうぞく》の四、五人がそれぞれ手を柄頭に整然とひかえている。
通りがかりか、ないしは志あってか、この一団の火事装束、いま血戦の最中にこっそり邸内に忍び入って来たものに相違ない。
夜陰《やいん》に跳梁《ちょうりょう》する群盗の一|味《み》!
それが偶然にもこの修羅《しゅら》場に落ちあったものであろう。逡巡《しゅんじゅん》するはいたずらに時刻の空費と考えた栄三郎、躍動に移る用意に、体と剣に細かくはずみをくれだすと、機先《きせん》を制《せい》してくるかと思いのほか、正体の知れない火事装束の武士、あくまでも迎え撃ちにかまえて、揶揄《やゆ》するごとく一刀を振り立てながら、
「お手前は――? 坤竜かの?」落ち着き払った、老人らしい声音である。
栄三郎は、ふたたび愕然《がくぜん》とした。
自分と左膳とのあいだの乾坤二刀の争奪……誰も知る者のないはずなのに、この、突如としてあらわれた異装の一隊は、そのいきさつを委細《いさい》承知《しょうち》してわれからこの場へ踏みこんできたらしい口ぶりだ。
何者かはわからぬが、容易ならぬ一団!
ことに、いま栄三郎と立ち合っている恰幅《かっぷく》のいい侍はその首領とみえて、剣手体置きすべてが世のつねの盗人とは思われ
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