子《さき》にかけるところだった。
 剣閃《けんせん》、雨に映え、人は草を蹂躪《じゅうりん》して縦横に疾駆する。
 たけなわ。
 さもなくば、初冬|細雨《さいう》の宵。
 浅酌《せんしゃく》低唱によく、風流詩歌を談ずるにふさわしい静夜だが……。
 いま、この化物屋敷には、暗澹《あんたん》として雲のたれる空の下に、戟渦《げきか》巻きあふれて惨雨《さんう》いつやむべしとも見えない。
 血に染んだ草の葉を打つ雨の音。
 斬られた者のうめき声が、泥濘《でいねい》にまみれてそこここに断続《だんぞく》する。濡れた刀が飛び違い、きらめき交わして、宛然《えんぜん》それは時ならぬ蛍合戦《ほたるがっせん》の観があった。
 源十郎の鋭刃に虚をくらわせた泰軒。
 同時にうしろに、氷《ひょう》ッ! と首すじを吹き渡る剣風を覚えて、危なく振りむいた――のが早かったかそれとも、離室を出た一拍子に、泰軒の姿をみとめて駈けよりざま、乾雲をひるがえして背撃にきた左膳のほうが遅かったか……とにかく左膳のたたっ斬ったのは、やみを彩る数条の雨線だけで、泰軒先生最初にぶんどった土生仙之助の大|業物《わざもの》を車返しに、意表にでて後ろの源十郎へ一|薙《なぎ》くれたかと思うと、このときはもう慕いよる半月形の散刀に対して、無念無想《むねんむそう》、ふたたび静に帰《き》した不破《ふわ》の中青眼。
「乞食野郎《こじきやろう》ッ! 味をやるぜ!」
 心から感嘆した左膳の声だ。
 乾雲を追って部屋を走り出た坤竜。栄三郎が雨をすかして庭面《にわも》を見渡すと、向うにささやかな開きをなしている草むらのあたりに、泰軒を囲んでいるとおぼしき一団の剣光がある。
「うぬッ! こうなれば一人ずつ武蔵太郎に血をなめさせてくれる!」
 と、栄三郎が先方を望んでまっしぐらに馳《は》せかかった刹那! その出足に絡むように、つと闇黒からわいて現われた黒影!
「一手、所望《しょもう》でござる!」
 立ちふさがって、しずかな声だった。

 江戸の町々を寒く濡らして、更けゆく夜とともに繁くなる雨脚《あまあし》……。
 地流れをあつめて水量の増した溝から、泥くさい臭気がぷうんとお藤の鼻をつく。
 両側の軒が迫り合って、まるで屋根の下のような露地の奥。さしかけた傘を、庇《ひさし》を伝わりおちる滴《しずく》が正しく間《ま》をおいて打って、びっくりするほど大きくこもって聞こえた。
 雨に寝しずまる長屋つづき。
 屋内では、お艶と弥生が、たがいの涙にまた新しい涙を誘われて、何かクドクドと掻きくどいているらしい。
 丹下左膳が思いをかけている弥生を煽《あお》りたてて栄三郎への慕念をたきつけ、それによって恋のうずまきをまんじ[#「まんじ」に傍点]に乱してやろうと、頼まれもしない嫉性鬼女《しっしょうきじょ》のお節介《せっかい》に、この雨のなかを、こうして麹町くんだりからわざわざ恋がたきをつれ出してきたお藤、御苦労にもおもてに立っていくら聞き耳を立てていても掴みあいはおろか、いっこうにいい募《つの》るようすだに見えない。
 お艶、栄三郎のむつまじい住いを見せてやっただけでも、お藤は相当に弥生をいじめ得たわけだが、もっともっと弥生が恥をかくようなことにならなければ、お藤としては腹の虫が納まりかねるのだ。ところが、いつまで待っても二人は泣き合っているばかり……これでは櫛まきお藤、初めの目算《もくさん》ががらりはずれたわけで、いまさら引っこみもつかず、なおも格子の隙に耳をすりつけていると――。
 先刻から、露地口をこっちへ、犬のように忍んでいる黒い影があった。
 それがこの時まで、すこしむこうの溝板《どぶいた》の上にうずくまっていたが、いよいよお藤の姿を確かめ得たとみたものか、急に隠れるように後へ戻って、そっと往来へ走り消えた……のをお藤は、家の中へばかり意を注いでいて、気がつかなかった。
 その家の中では。
 おなじ恋の辛さに、女同士のなみだを分けるお艶と弥生。
 ――弥生様は、どうしてわたし達の隠れ家を突きとめて、しかもこの雨の深夜に、何しにいきなり乗りこんでいらしったのだろう? とこれが一ばん先にお艶の頭へきたのだったが、座に着いてから今まで、言葉もなくただ泣きくれている弥生を見ているうちに、なんということなしに自分も涙をおさえきれなくなって、ほろりと一つ落としてからは、あとはもう言うべきことのすべてが失《う》せて姉妹のように手をとり合わぬばかり、泣いて泣いて、泣きつくせぬ両人であった。
 うしなった恋に涙を惜しまぬ弥生と。
 得た恋の不安、負けた相手への思いやりに、またべつの嘆きをもつお艶と……。
 ようよう泪を払って、弥生がしんみりとお艶に物語ったところは。
 栄三郎へかたむけた自らの恋ごころ。亡父鉄斎の意企《たくらみ》。夜泣
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