しくやつれた白い顔が、クシャクシャと引きつるように真ん中へよったかと思うと、口がゆがみ、小鼻のあたりが盛り上がってきて、無数の皺《しわ》の集まった両の眼から、押し出されるように涙の粒が……あとから後からと光って落ちて、青い筋の浮いている手の甲や、膝を包む友禅をしとどに濡らす。
その顔をまっすぐにあげた弥生、いまは恥も外聞《がいぶん》も気位もなく、噛みしめた歯ももう泣き声を押し戻すことはできずよよとばかりに、声をたてて慟哭《どうこく》している――からだはすこしも動かさずに。
しかし、骨をあらわした壁に、弥生の影が大きくぼやけて、その肩の辺が細かくふるえて見えるのは、あながち油のたりない裸燈心《はだかとうしん》のためばかりではなかったろう……弥生はいながらに身を涙の河に投じて、澎湃《ほうはい》とよせてくる己《おの》が情感に流されるままに、何かしらそこに甘《あま》い満足を喫《きっ》しているふうだった。
おさむらいの娘というものは、こうも手放しで泣くのか――と頭の隅であきれながら、ただまじまじと弥生の涙を見つめていたお艶も、女の涙のわかるのは女である。そのうちに一度、この場にいない栄三郎のことが胸中に閃《ひらめ》くと、自分の思いに照らしあわせて弥生のこころがひしとうってくるのを感じて、いつしかお艶も眼のふちをうるませていた。
それは、互いに一人の男を通して、やがてひとつに溶け合おうとする淡い入悟《にゅうご》の心もちであった。がそれまでに円くなるには、まだまだ二つの魂が擦れあい打ちあって角々をおとさねばならぬ……よしそのために火を発して、自他ともに焼き滅ぼすことがあろうとも。
長い沈黙である。
と、この時、弥生の泣き声のなかに言葉らしきものが混じっているのに気がついて、お艶は、
「は? なんでございます――?」
ときき返したつもりだったが、じぶんでも驚いたのは、お艶の口を出たのがやはり泣き声のほか何ものでもなかった。
いまにつかみあいではじまるだろうと、おもてに聞いていたお藤、
「おやおや! 嫌にしめっぽくなっちゃったねえ。お葬式じゃああるまいし……なんだい! ふたりで泣いてやがらあ!」
と当てのはずれた腹立ちまぎれにトンと一つ黒襟《くろえり》を突きあげて、相手なしの見得を切ったが。
ちょうどそのころ、本所鈴川の屋敷では――。
闇黒に冷えゆく屍骸《しがい》につまずいて、栄三郎が倒れるそこを左膳が斬りおろす……。
が、その時!
下からささえた武蔵太郎は刃ごたえがあって、一声|肝腑《かんぷ》をえぐる叫びをあげたのは剣狂丹下左膳であった。
人を斬ってばかりいて、近ごろ斬られたことのない左膳、しばらく忘れていた鉄の味を身に感じて、獣《けもの》のようなおめきとともにたたら足を踏んで縁にのめり出たが、あらためるまでもなく、傷は、右膝に食い入ったばかりで、骨には達していない。大事ないと見きわめるや、かれは再び猛然と乾雲丸を取りなおした。
隻眼隻腕、おまけに顔に金創の溝ふかい怪物……このうえ跛者とくりゃあ世話アねえや! ととっさに考えるとそこは老獪《ろうかい》の曲者《くせもの》、火急の場にも似ず、痛みを耐えるようににっと歯を噛んだ――笑ったのだ。
「さあ己《おの》れッ! この礼はすぐに返してやる!」
「…………」
答のかわりにはね起きた栄三郎は、直ちに跳躍して追撃を重ねる。それを左右に払いつつ、左膳は戸口を背に一歩一歩さがってゆく。
せまい庵内なればこそ、八転四通の左膳の剣自由ならず、道場の屋根の下に慣れた栄三郎も五分五分に往けるのだが、一度野天に放したが最後、地物《ちぶつ》に拠《よ》り、加勢をあつめ、奔逸《ほんいつ》の剣手鬼神の働きを増すことは知れている。ことに戸外では、泰軒が多勢を相手に悪戦しているのだ。そこへ左膳を送り、自分が出て行けば、泰軒とともに苦境におちることは眼に見えてあきらかだ。
なんとかして室内にくいとめておかねば――と栄三郎が右からまわって退路を絶とうとしたとき、左膳の左手がビク! と動いたと見るやはや乾雲風を裂いて飛躍しきたったので、突っ離すつもりで身をひいたとたん、土間に降りた足音がして、六尺棒のような左膳の身体がスルスルと戸ぐちをすべり出た。
その出たところを泰軒が見たのだった。
泰軒は、ちらと一瞥《いちべつ》をくれた……だけだったが、その間隙《すき》が期せずして源十郎に機会を与えて、泥を飛ばして踏みこんだ鈴川源十郎、流光雨中に尾をえがいて振りおろした――。
のはいいが。
あいだに張り出た立ち樹の枝に触《ふ》れて、くだかれた木肌や葉が、露を乱してバラバラッ! と散り飛ぶのをいちはやくそれと感知して、泰軒、身を低めて背《しり》えに退いたから源十郎はすんでのことでわれと吾が足を愛刀の鋩
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